3月29日(月)実体の幸福

機嫌がいい。連日の寝不足で体にはかなりがたが来ているけれど、こんなに溌剌としていることも珍しいので、やはり眠りをあとまわしにしてしまう。生活を彩るいとしい記憶を残しておくことのほうが大事だと思うので。とはいえ、なんだか最近めまいの頻度も上がっているのでどこかで立て直さないとまずいかもしれない。

ひと月前から心待ちにしていた土曜日の話。正午少し前に友人と落ち合って、こぢんまりとしたイタリアンのレストランへ。ふたりして熱をあげているゲーム内のキャラクターが営む料理屋のモデルとなったと言われる店である。それだけでも楽しくてはしゃいでしまったけれど、食事がほんとうに美味しくて、それがすごく嬉しかった。食べることは好きだけれど、ひとりで生活してゆく中では優先順位としては下がりがちで、空腹を満たすだけの行為でしかない。だから生命維持行為としての食事ではなく、文化としての食事をきちんと味わうのは久しくて、ずっとそのことに浮かれていた。蛍烏賊とそら豆のカヴァテッリ、春を感じられて嬉しかった。レモンパイとサングリアも頼んだ。どちらもゲームにゆかりの深い顔ぶれ。続けて行った森の中みたいなカフェも、鉱物を愛でつつ菓子と酒が楽しめる店も、もうぜんぶが楽しかった。美味しい食事と酒をかたわらに、心を預ける友人と愛するものについて話す、これに勝る幸福を私は知らない。本心からそう思う。店を出て、桜をひやかして、おたがい原稿がんばりましょうねと笑って別れた。どこか一日をループし続けなくちゃいけないことになったとしたら、この日を選ぶかもしれない。帰宅してからは午前三時くらいまで書いて、どうにか原稿を終わらせた。

日曜、歯医者のために九時過ぎに起きる。よく起きることができたものだと思う。夜のように陽光を遮る分厚い曇天だった。私はこういう曇り空が好きだ。雨が止んでからは、好きだった女の子と会った。会話はとるにたらないことばかりだ。仕事の話とか、アイドルの話とか。カフェに入って、ふらふらデパートの中を歩き回って、またカフェに入って。一緒に何かをすることが目的ではなく、ただ相手に会うことそのものが目的の時間を過ごせる相手は稀有なものだ。彼女といると呼吸をゆるされるような気がする。この人のことを好きだったことが嬉しい。過去形にはしているけれど、今でも恋愛感情がさっぱりないか、と問われたら否だ。好きだった頃も今もかわらずに魅力のある人だから。でも、そんなことはどうだっていい。色恋だなんてものが信用に値しないことを、私は痛いほどよく知っている。それよりは、彼女と私の線が交わり続けていることを宝物みたいに慈しんでいたい。

土曜も日曜も考えうる限りでもっとも幸福な時間の使い方をした分、今日の仕事に対する憎しみはひとしおだった。好きじゃないから、目を逸らして逃げてしまう。そのせいで、結果的に終わりが遠くなって、仕事する時間が伸びる。自分の意志の弱さが招く皮肉な状況にうんざりすることにもいい加減飽きてきた。休日の幸福の残像に焦がれて一日が終わった。食事は無残だった。昼はカップ麺だし、夜はインスタントの粥だけ。買いに行くことすら億劫だった。

とはいえ、そんな日でも悪いことばかりではないもので、筋トレをちゃんとできたことと、人に送る文章にじっくりと向き合う時間がとれたのは良かった。その人のことを考えながら言葉を選ぶという行為は、贈り物をすることに似ている。ゆえに、言葉選びに時間をかけることは、私にとっての誠実さの実現方法のひとつである。この二年弱、対人関係に苦しめられることが多くて(身から出た錆だったとはいえ)、他者と信頼関係を築くことにすっかり臆病になってしまっていたけれど、すこしは停滞を抜けたのかもしれない。

今はちゃんと自分は幸せに値する存在だと思えている気がする。私は私を幸せにしていい。そういうふうに思わせてくれたのは、海へ行く約束をした友人であり、好きだった女の子であり、元恋人であり、大学や高校時代の愛すべき悪友たちである。ずっと「友愛」のことがわからないと思ってきたけれど、これが友愛なんだって先週も今週も考えた。すこし前から、私が友人だと思う人のことをちゃんと友人と呼ぶようにしている。そうすることが愛する覚悟の表明になると思ったから。私は私の生活にまじわる人たちを愛している。今月たくさん人に会ったことは、たぶん今の自分には必要なことだったのだろうと思う。

土曜に友人から貰った推し色の石のブレスレットを時おり電球に翳している。炭酸のような幸福がちりちりと私を喜ばせる。幾度も死を望んできた。過去の自分の苦しさを私は軽視しないし、そのうちのどこかのタイミングで死んでいてもおかしくはなかった。もしそうなっていたとして、私はそのときの自分の選択をゆるすだろう。でも、確かなことは、今の私は、生きていて嬉しいと思っていることで、それがいっときだけのものだとしても、今手に触れることのできる実体の幸福なのだ。