3月31日(水)愛の初心者

三月最終日、らしい。週の真ん中だし、私の会社は年度末が十二月だし、異動があるわけでもないし、私は十月入社だから節目というわけでもないし、新入社員も研修が終わる夏まではかかわりがないし、とにかく私にとって明日は今日の次の日という以上の意味を持つことがない。それでも、春というのは不思議な季節で、何がなくとも浮足立つような気分にさせられてしまうものだ。好きな言葉を綴る人が以前、桜について「享受することよりも過ぎ去ることを先に恐れてしまって、その刹那的な感じに安らぎはない」と評していたのが印象的だったのだけど、春という季節そのものが、やわらかな薄紅の裏にそういう剣呑さを持ち合わせているような気がする。ところで、愛すべき友人のうちには春を嫌う者もあるけれど、私は道端の花々が最も力強く美しいという点において、この季節を愛する。

うららかな陽光に誘われて、出不精の私にしてはめずらしく、昼食の弁当を買いに出るついでに近所をぐるりと散歩した。今日会えたのはカタバミ、トキワハゼ、オニタビラコ、オランダミミナグサ、ツタバウンラン、コハコベ、ハルジオン、オオイヌノフグリキュウリグサホトケノザセイヨウタンポポハナニラ、ヤハズエンドウ、ヒメオドリコソウアメリカフウロ、ハナイバナ、ヒメツルソバツルニチニチソウナズナ、イモカタバミなど。どれもけして珍しい顔ぶれではないけれど、何に出会えるかわからないまま歩いているときに見つけると嬉しい。いささか下世話なたとえだけど、まるで期待せずにガチャを引いてSSRが出たときの気持ちが、数歩ごとに味わえるのである。

昨日、一昨日と仕事は全然だめで、能率も何もあったものではなかったけれど、今日はわりとちゃんと動けた。たぶん、嫌悪が飽和したんだろうと思う。仕事は嫌いだし、それでいい。でも、仕事ができない自分は好きになれない。生産性至上主義を内面化した憐れないきものだなあ、とは思うけれど、さしあたって私が私のことを好きでいるためには、やはり沈み続けているわけにはいかないのだ。それにしても、以前はもうすこしちゃんと仕事が楽しかったのに、いったいどうしてこんなに憎むことになってしまったんだっけな、と考えた。心当たりはいくつかあるけれど、たぶん、知的好奇心が天井を打ったんだろうな、というところに行き着いた。私は飽き性で、新しいものを知ることが好きだから、今仕事として触れる範囲のことはおおかたわかるようになってしまったせいで行き詰まってしまったんだろう。二年目くらいは、もっと楽しかった。社会が動いてゆく仕組みがどんどんわかるようになって、解像度が上がっていくことが楽しかった。そういう、目から鱗が落ちるような、視界が開けてゆくような、そういう類の気持ちよさに飢えている。もうすこし可動域を広げれば、また見えるものが変わって楽しくなるのかな。今度の面談で上司にそこを相談してみてもいいかもしれない。そう考えたらすこし希望が持てた気がして、それで上向いて、ずっと手つかずのままになっていた資料を幾つか続けざまに仕上げた(夜の会議で、昨日までの有様を知っている上司に見せたら驚かれた)。

日が伸びた。私の部屋は東向きだから、昼をすぎれば部屋に光は入らなくなる。空が暗くなるよりも早く部屋の光量が落ちていって、暗くなった室内からふと窓を振り返ったときの空の青さに驚く瞬間が好き。窓を開けていたら、春を通り越して初夏みたいな空気が流れ込んできた。

今日も友人にもらったブレスレットをときおり眺めていた(友人がこれを読むかもしれないことをわかっていてこれを書くのはものすごく恥ずかしいけれど、ラブレターを書くのは今にはじまったことではないし、好きを出し惜しみしても意味はないので)。優しい友人は、身につけるものを贈るのは重いかもしれないけれど、と前置きしてくれたけれど、それを言うならひとりの家で肌身はなさず着けている私もたいがい重たいことになるな、と思っておかしくなった。淡い水色の石を眺めていると、生きたい、という思いがふつりと湧く。

今月、友人らと過ごしたどれもが楽しくていとしい時間だった。私って好きな人がこんなにもいたんだな、と思った。そのいとしさを正面から受け止めたがゆえに、そういえば私は元来友人に対しても愛が極端に重い人間なのであったということもついでに思い出されて、心臓がひゅんと縮んだ。好きが執着にかわるのは容易いし、そのせいで苦しんだことはたくさんあるからだ。このところはそのことを忘れることができてしまうくらいに、淡白な人付き合いしかしてこなかっただけだ。けっきょく、友愛がわからないとのたまってきたのも、わからないふりをしていたほうが楽だったから。けれど、それをわかっていて、私は今友人を友人とよぶことを選んでいる。こわい。きらわれたくない。私の好きが相手の負担になったら申し訳ない。そういう恐怖を引き受けてなお、好きだということを選んでいる。エーリッヒ・フロムは『愛するということ』の中で「理論学習と習練のほかに、どんな技術をマスターするにも必要な第三の要素がある。それは、その技術を習得することが自分にとって究極の関心事にならなければならない、ということである」と述べているけれど、とすれば私は今、ようやく、愛することに目を向けるだけの場所に戻ってこれたのかもしれない。愛の初心者だ。四月を迎えるには悪くない位置づけかもしれない。