もっと肩肘を張らずに文章を書くことと向き合ってみても良いのではないか、と思う。こう考えるのは初めてのことではないけれど、仕事中、なんとなく詩集を読みながらそう思った。たいそうなものを書こうとしてしまうばかりに何も書けなくなるのが自分の悪癖であることは、ずっと前から知っている。
詩集が読みたい。脈絡なくおとずれた衝動に身を任せて、買ったきりろくに開かずに本棚に挿しっぱなしになっていた武者小路実篤の詩集に手をのばした。たぶん、好きな文章を書く人が何日か前に谷川俊太郎の話をしていたからだ。会議を話半分に聞き流しながら、ぱらぱらとページをめくっていた。やわらかな新鮮さがそこにあった。まぶしかった。私に見える世界は、このひとの目に映るようにはきらめいていない。それでも、このひとの言葉を通じて見る世界は美しいと思う。ひだまりのような、素朴な、無邪気な言葉のつらなり。言葉がこんなにも自由であることを忘れていた。
好きだったものを何篇か。
『俺はこの幸福を』
俺はこの幸福を誰に感謝しようかな。
たった一行、にじむような幸福。誰に感謝したっていいんだ、という自由さ。なんという身軽さ。この短い一文で、目のさめるような青の空がまぶたの裏に浮かんだ。つばさだ。
『友達の喜び』
友達と話しして、
話がはずんで来て、
二人の心が、
ぴったり、ぴったり、あって、
自ずと涙ぐむ時、
人は何者かにふれるのだ。
何者かに。
友人に会いたい、と思った。これを読むあなたのこと。
『静かなねむり』
つかれて
ねむくなって
静かにねる
心地よさ
自分は毎晩
静かにねられることを
感謝し
そしてねられぬ人々のことを思う。
どうかして
皆
静かにねられるように
したいものだと思う。
こういう祈りを、私も持ち続けていたい。
信頼するひとびとの心にある詩集をたずねて、教えてもらった作品たちを片っ端から注文した。明日届く。知らない言葉のならびに出会えることを楽しみにしつつ、静かにねたいものだと思う。