2021/8/18

終日有給休暇のはずだったのに、うっかり午後休と言い間違えたせいで午前中は会議に出る羽目になった。休暇なので、話半分に聞きながらマニキュアを塗っていた。

午後、自由劇場。五月からずっと楽しみにしていた『はじまりの樹の神話』を観る。半年前、初めて『アラジン』を観た時以来ずっと惹かれている俳優を目当てにとったチケットだったけれど、彼の出演日じゃなくて残念だった。劇団四季の作品主義は、俳優が人間であることをゆるさない。それはすなわち、惹かれた相手が、いつ舞台にあらわれるのかもわからないし、舞台の上以外で何をしているのかいっさいの情報がないということだ。時折公式が出す稽古写真や動画のどこかに、すこしでも姿が見えやしないかと目を皿にして探すことしかできない。そんなことをやっているうちに半年が経っている。たった一度きりの演技で、ここまで人間は誰かに執着することができる。たった一度きりの演技で、ここまで人間は誰かを執着させることができる。

来週末はおそらく彼の出演週だ。土曜は配信で、日曜の東京千秋楽を劇場で、それぞれ観る。半年ぶりの彼の演技を、配信で先に観てしまうことに対するためらいはあるけれど、でも待ちきれないのはわかっている。自分の中で感情がふくらみすぎている気がして、楽しみよりは怖さが勝つ。ようやく観たとき、自分は何を感じるのだろう。

終演後は贔屓の喫茶店で夕食をとった。ミートソースパスタは肉の味がしっかりしていて美味しかったけれど、母の作る野菜のたっぷり入ったものが一番好きだなと思いながら食べていた。ヴィクトル・ユゴーノートルダム・ド・パリ』をすこし読みすすめる。

行きも帰りも、ずっと劇団四季の『ノートルダムの鐘』のアルバムを聴いていた。すこし前に再演が決まって、悪友たちと観に行く約束をして、それに向けて曲を聴いておこうかな、とふと思い立ったのが昨日のこと。重厚さと華やかさにすっかり心を奪われてしまって聴き込んでいるうちに、歌詞から断片的に伝わってくる世界に目が熱くなって、いてもたってもいられなくなった。熱に浮かされたみたいにディズニー作品の配信サービスを契約して、観はじめた。

五歳から中学にあがるまでの七年間、テレビのない家で暮らしていたので、同世代の多くが経験している児童向け作品のほとんどを私は知らない。『美女と野獣』や『リトルマーメイド』みたいな、ディズニーのいわゆる名作とよばれる長編でさえ、どれもなんとなくあらすじを知っているくらい。劇団四季を好きにならなかったら、ディズニーの世界が私の生活とまじわることはたぶんなかっただろう。ディズニーの映像作品に対する知識がまっさらな状態の私に、『ノートルダムの鐘』は、鮮烈な痕を残した。フェミニズムの文脈で読み解くのもおもしろくて、勉強していてよかったと思った。私の生きる国にもおぼえのある民族差別と女性差別、容姿による差別の描写の苛烈さはすさまじかったし、その仄暗さのあいまを縫ってきらめく人間の感情の美しさに心臓をぎりぎりと絞られるような思いだった。人間って一時間半のあいだにこんなにも泣けるのか、というくらい、何度も何度も泣いた。

再演を一緒に観に行くのは、おなじように反差別をこころざし、フェミニストをなのる女たちである。アニメを観て大泣きしたことを伝えたら、「アニメでそれなら舞台やばいと思うよ」という。三人でべちょべちょに泣きに行こうね、と話した。