2021/8/25

助けてほしい。このところ、この言葉が胸のあたりで明滅を続けている。誰から?何から?

日曜に書いていた日記が消えた。文章を書くことは、私の一部を外部記憶装置に切り出しておくことに等しいから、それが消えるというのはそのまま自分の存在が欠ける感覚に似る。思い出しながら書き直したところで同じものが書けるわけでもないし、たとえ一字一句再現できたところで、その日に感じていたものまで取り戻せるわけじゃないから偽物に成り下がる。それでも、ただでさえふわふわと曖昧な輪郭がさらにぼやけて、今自分がどこに立っているのかよくわからないのが気持ち悪くて、悪あがきしている。水の中にいるみたいだ。助けて。

日曜は『はじまりの樹の神話』を観に、三日ぶりの浜松町へ。観るのは配信をふくめると三度目だ。曲はとてもいいし、キャストの演技も見応えがあってすごく楽しい。好きなところがたくさんある。斎藤洋一郎さん演じるホタルギツネが面を外すところが格好良すぎて、小さく悲鳴を上げかけたのを押し殺したりした。周囲もどことなくどよめいていて、そうやって空気がうごく瞬間を共有できるからやっぱり劇場が好きだなと思った。その一方で、性別役割分業の色濃い演出には後味の悪さをおぼえた。ミソジニーホモフォビアがグロテスクに露呈する『アラジン』の脚本を考えても、劇団四季がこのあたりの価値観に対して信頼をおける集団だとは思っていないので驚きはないけれど、子どもたちも観るファミリーミュージカルという位置づけであればこそ、家父長制の再生産に加担することの暴力はもうすこし考えてほしいと思う。

水曜に観に来たときにはさんざん悩んで買わなかったホタルギツネのぬいぐるみを、幕間で購入してしまった。ぬいぐるみを手元におくことを避け続けてきたはずだったのに。存在に責任を持てないから、というのがその理由だ。持っていたぬいぐるみたちに別れを告げることに決めたのは、中学生にあがった頃だった。首がすわるよりも前から一緒にいたような子たちもいた。一緒に遊んであげられなくなって久しくなり、本棚のうえで並んで、文句を言うでもなく静かに私を待つ姿がいたたまれなくなってしまって、いっそ天国に送ったほうがのびのび暮らせるはずだと思ったのだ。それでも、ゴミ捨て場に連れていきながら、わんわん泣いた。今でも心臓が引き裂かれるような寂しさと罪悪感は色褪せていない。人間の天国はあまり信じていないけれど、彼らには幸せに暮らせる世界があってほしいと思っている。なくちゃ困る。今でもその時の感覚が新鮮に痛いから、ぬいぐるみは苦手だった。それなのに、そばにいてほしい気持ちに抗えなくて、とうとう買ってしまった。会計をすませて、受け取って、袋から出してそのやわらかな毛並みに触れた瞬間、笑いたくなるくらい気持ちがほぐれたのがわかった。月曜と火曜は出勤しなくちゃならなくて、気持ちが荒んでしまいそうだったから鞄に忍ばせて行って、帰りの電車では鞄の中に手を突っ込んでずっと撫でていた。いとしき繊維のかたまり、大事にする。

死にたいというのとはちょっと違う、水底の泥に足をからめとられているような不安感に苦しめられている。何もかもが不正解な気がする。政治がろくに機能しない世界で、戦い方のわからない感染症との付き合い方を自分で判断しなくちゃならない。感染するのは怖い。苦しい思いをするのも、死ぬのも、自分は死ななくても誰かを殺してしまうかもしれないことも、とっくに限界を超えている医療現場に負担をかけるようなことも、ぜったいに嫌だ。よりによって自分が感染するはずはない、なんて根拠もなく思えるはずがないし、けっして楽観的にとらえているわけではないつもりだ。それでも、劇場にこうして足を運んでしまう自分のダブルスタンダードぶりに辟易している。許可とか善悪とか自己責任とか、そういう話じゃないことなんてよくわかっている。感染したくないなら、感染しないための行動をとる以外の選択肢はない。外出が禁止されていないから外出しても大丈夫、なんて理屈はウイルスには通用しない。だけど、出勤はさせられて劇場には行けないって何?と叫びたくなることがまるきり間違っているとも思えない。劇場は、舞台を創るひとたちの生活といのちがある場所だ。政治が何もしてくれないからこそ、対価を払えるときにきちんとお金を出したいという意志もある。あの場を守るために観客ができることなんてそれくらいしかないんだから。それを身勝手のひとことで片付けられたくない。政治がすべての人の生活を守るための補償とロックダウンをしてくれよ。

私より危機感の薄いひととはどうしても距離を置きたくなるし、私よりもきちんと身を守る行動をしている人から見たら私もその対象になるだろう。それぞれ引く線の位置が違うから、友人と話すことも怖い。会いたい人に会いたいということすら怖くなってしまった。すごくすごく会いたいよ、でもそう思っているのは私だけかもしれない。

今の私には劇場しかない。何をしても不正解に思える世界で、好きなものを好きだと確かめている自分が唯一正しいと思えた。劇場にいる自分が好きだった。それすら奪わないでほしい。苦しい。