2021/9/29

八時半に起きる。悠長にコーヒーを淹れていたら会議のはじまる時間になってしまってすこし慌てた。

今日は会議があまりない日のはずだったのに、気がついたらどんどん予定が入って、やりたいことはあまりできなかった。わりあい余裕があると思っていろいろ引き受けていたら、いつのまにか首が回らなくなっていて、内心すこし焦っている。まだ手に負えないほどではない、たぶん。それでも退社したのは午後九時前で、今日もけっきょく自炊はできずに惣菜を買った。冷蔵庫で野菜たちが待っている。休日にはきちんと何か食べよう。

いろんな人のあいだで板挟みになっている。思惑がそれぞれにあって、そのどれもが間違っているわけではないのに、うまくかみあっていなくて、そのあいだで奔走している。私は、きっと多くの人よりも他者の発言のうしろにある文脈を読むことがうまい。日日通訳、なんて茶化すこともあるけれど、事実、他者と他者の意思疎通の失敗によって発生した齟齬をただすことにかなりの時間を割いている。生産性という言葉はきらいだが、もうすこし意味のある行為をしたという実感はほしい。言葉が届く範囲というのは、思っているよりもずっとずっとせまい。みんな、自分にわかる表現をつかって伝えた気になって、わかってくれない相手に対して、私に文句を言う。どういうつもりで言ったかなんて、言葉を舌先/指先にのせた瞬間から消失するのに。相手に伝わることがすべてで、意図したとおりに伝わらなかったのだとすればそれは方法を誤ったということで、それなら伝わるようにやり直さなくちゃいけないのに、それをわかっていない人間が多すぎる。コミュニケーションの技術そのものを売りにするこの仕事ににおいて、私の能力はたしかに強みだと自負しているけれど、裏をかえせば緩衝材になりやすいということでもある。こういう定性的な技術というのは、フリーライドされやすいのだ。信頼されている、ということでもあるのだろうけれど、自らの八方美人っぷりをみとめて嫌気が差す。そういう、ちいさな消耗をくりかえしている。

ゴルゴ13』の作者の訃報を見た。作品についてよく知らないのに、自分がいなくなっても作品が続いてほしいという氏の遺志を継いで連載は続ける、という漫画誌の投稿を見て、思いがけず泣いてしまった。もうずっとまえから準備をしていたのだろう、とうかがわせるものだった。物語は終わらないこと、終わらせまいとする人がいること。ひとりの人が死んで嬉しいなんて思ったらいけないかもしれないけれど、それがすごくあかるいなと思って、光を見たような気がした。

ジノの除隊の案内がでた。昨年の五月十一日、「推しであり、憧れであり、ライバルでありたくて、友人でありたくて、世界一歌声が好きな唯一のひと、これまでと違う日々で新しい何かと出会えますように。一年半後にまた胸を張って会いに行けるように私も私の日常をきちんと生きるよ」とつぶやいていた私よ、今、胸を張れていますか。今からでも遅くないだろうか。