2021/9/30

事業所からしかアクセスできないシステムからデータを抽出しなくてはならず、出勤をしていた。それはべつに良いのだが、データ抽出に十二時間もかかったせいで、終電を逃してタクシーで帰宅する羽目になった。まあでも、それもまだ良い。最悪だったのは、そこまでしたのに、翌朝になってデータ抽出の処理が正常に完了していなかったとわかったことだ。誰もいない真っ暗のオフィスで、好きな声優のラジオを大音量で流しながら孤独に耐えていた私の夜はなんだったというのだ。楽しむ気持ちが幾ばくかなかったといったら嘘になるけれど、こんなことならもっと早く帰りたかった。でも、タクシーで夜の高速を走れたのは良かった(会社の経費だし)。車酔いしやすいたちだから、ただ音楽を聴きながら、流れていく街のあかりとか、雨に濡れてしっとりと光る路面だとかを眺めていた。

GRAPEVINEというバンドの曲を聴いていた。私がもっとも信頼し心をあずける友人が愛するバンドであり、好きな文章を書く声優の愛するバンドでもある。斉藤壮馬という人間にずぶずぶと沈んでゆく私を見たその友人が、「言葉を重んじる人(=私。このうえなく嬉しい形容だ)がGRAPEVINEを好きな人のことを好きになるの、ピースがはまる感じがする」と言ってくれたのが、ずっと頭に残っていた。私は友人の言葉への向き合い方を信頼している。友人は、GRAPEVINEの言葉を、ひいてはGRAPEVINE愛する人の言葉の向き合い方を信頼している。好きな言葉をつかうからこそ好きになった男は、GRAPEVINE愛する人である。ここに円環がたしかにある。円。縁。数日前に読んだ彼のエッセイで、「自分は縁というものを信じている」という話をしていたのを思い出した。聴かない選択肢なんてはじめからなかったみたいだ。バンドの名前は知っていたけれど、ちゃんと聴くのは初めてだ。静かな車内で、頭蓋を音で満たして聴いていて、雨がコンクリートにしみていくような馴染み方をする音楽だな、と思った。しっとりと心を湿らせていくような言葉たちが心地よかった。ほんとうは、好きな人が好きだから聴いてみる、というのはなんだか悔しい気がして、数日ほどためらっていたけれど、聴いてみたらそんなのはほんとうにどうでもいいことだった。たぶん、私は私の好きな人と肩を並べてありたくて、だからどうせ出会うなら、私は私の出会い方で出会いたかった。そこに上下とか前後みたいな順序がつくのが嫌だったんだと思う。でも、これだって出会い方のひとつでしかなくて、そこに拘泥することは馬鹿らしい。

音楽を聴く、ということをもっとちゃんとやってみたいな、と最近思う。視覚認知のほうが聴覚よりもおそらく向いているたちであるせいか、歌詞のある音楽を意味のあるものとしてとらえるのは、それなりに集中を要する。気持ちのいい音、好きな音、はけっこうすぐに見つけられるけれど、好きな歌詞というのはあまり見つけられない。探していないからだ。どうしてもバックグラウンドミュージックとして消費することが多いけれど、それがなんだかすごく惜しく思える。向き合うこと。己の好きを考えることは、言葉と向き合うことだし、友人がくれた「言葉を重んじる人」という評価に恥じないでありたい。