答え合わせ

ヒプノシスマイクにからめとられた。Netflixが今月末に配信終了だよ!というので、安易な気持ちでアニメに手を出したのが九月上旬のこと。私の主戦場まほやくの推しであるオーエンの声を務める浅沼晋太郎と、好きな声の斉藤壮馬が出ているというところに興味を惹かれたところが大きい。それに、別の作品の二次創作で文章に惚れ込んだ人の現ジャンルがここで、その人の書くものを理解してみたい、という動機もあった。規模の大きいコンテンツなら教養として通っておこうかな、という下品きわまりない下心もすこし。あとは、絵が好みだったり。

難読漢字の名前のキャラクターがたくさんいる、特殊なマイクを武器にラップで戦う、というくらいの事前知識で臨んで、ワクチン接種の副反応で発熱して手持ち無沙汰でいるあいだに観たので、荒唐無稽な印象は高熱のもたらした酩酊ゆえかと思ったのだけど、体調が戻ってから見返してもわりと破天荒な作品だった。違法マイクをダイナマイトみたいにずらりと腰に巻き付けているテロリストには笑ってしまった。

アニメの視聴と前後してリズムゲームもインストールして、曲が好きだとわかったのと、キャラクターのことをもっと知りたくなって、ドラマトラックやゲームのメインストーリーにも手を出した。ところが、知れば知るほど、手放しで好意的に評価できる作品ではないなという印象は次第に強まった。女が支配し、男は重税を課されるという、いわゆる「女尊男卑」の世界設定の必然性がまったく見えてこないことにわだかまりが残るのだ。反骨精神をアイデンティティにもつヒップホップという音楽ジャンルを活かすために、男性を相対的に弱者の立場に置きたい、みたいな意図があることは察するけれど、それにしてはミラーリングが甘すぎる。「女性が」敵でなくてはならないと思わせるような説得力がこれっぽっちもない。まして、男性声優メインの企画で、主要なターゲット層は女性のはずだからなおさらだ。物語の序盤で、自分の理解が甘いだけなのかとも思ったが、ひととおりドラマトラックやゲームのメインストーリーを進めても印象は変わらず、後味の悪さは消えなかった。数日顔を突っ込んだだけの私でも違和感を感じるものだから、同じようなことを言葉にしている人はけっこうたくさんいた。全体的な世界観設定だけじゃなくて、個々の台詞やリリックに顔をしかめたくなることもすくなくない。価値観の合わないものとは距離をおく生き方を選んできたので、こんなふうに怒りながら好きになる経験をあまりしたことはないように思う。とっくに嫌いになっていてもおかしくないのだが、不思議なことにそうはなっていないので、いっそいけるところまでキレちらかしてやることにした。

もっとも、曲がとにかく好きで、音楽って音を楽しむものだったなと思いだしたり、気になるキャラクターもできてしまったりで、愛したいものは愛することに決めた。批判することと愛することは両立する。乱数も「好きも嫌いもなんでもきみの自由さ」って歌っていることだし。

シブヤの三人に惹かれている。歌詞の好きな楽曲が多いことと、互いの生き方に過度に干渉をしない間柄がいいと思った。あとは、いろいろ触れたかぎりで、いちばん私の倫理に照らしてだいじょうぶだったからというのもある。他者も、あるいは自分をも煙に巻いてばかりいるような危うさと、それでいてしたたかさも、生身の人間らしい愛嬌もあわせもつ幻太郎だとか、他者の懐にはするりと入り込むくせに、他者を迎え入れることはどこか拒んでいるような諦念をときおり匂わせる帝統だとか、大事にしたいはずなのに自分の存在を許容できずに刹那の友だなんてチーム名にかまけてしまう乱数の不器用さだとか、それぞれ好きだ。何よりも、自らのいのちさえも抵当だと言い切る帝統の苛烈な生き方がまぶしくて憧れている。

このコンテンツにここまで深入りすることも想定していなかったけれど、さらに誤算だったのは、本格的に斉藤壮馬という声優に足をとられてしまったことだった。声が好きな人だという認識は以前からあったのだが、それは「声が好きな人」で、それ以上でも以下でもなかった。私が好きなのは、あくまで向こう側で生きるキャラクターであり、それをこちら側で誰が、どんな人が演じているかについて興味を持ったことは、これまではあまりなかったのだ。むしろ、キャラクターと相対するときに、声優の人格が干渉してくるような気がして、知ることを積極的に避けていたとすらいえる。

夢野幻太郎というキャラクターに惹かれたのが、彼が文章を書くことを生業とする人だったからなのか、それとも斉藤壮馬が演じていたからなのかは、いまだにわからない。ただ、曲を聴き込んでいくうちに、彼(この三人称が指すのが幻太郎なのか、斉藤壮馬なのかもわからない)の声が聞こえるごと心臓がかっと熱くなることを自覚した。声が好き、ということが、どういう機序で自分のなかに強い感情を呼び起こすのかわからぬまま、抗えないところまで踏み込んだことを知った。友人にいくつか曲をすすめられて、そのどれもが好きだったのもあるし、ブログ記事を幾つか読んでみて、好きな言い回しをする人だな、というのも追い打ちをかけた。

崖の縁で、それでも彼のことが好きだ、と認めるのをためらっていたのには、声優そのものに対する不信感がある。以前に一度だけ興味本位で観た声優のライブで、トーク中に出演者のひとりからホモフォビックな発言があったからだ。もちろんそれが全体ではないとわかっている。それでも、演じる側からそういう傷つけられ方をすることもあると知ったのは、信頼を失うに足る出来事だった。だから、知ることで、そういう思いをまた味わうことになるんじゃないかというおそれが、私を踏みとどまらせていた。

とどめの一撃はあっけなくて、でも鮮烈だった。私がかつてヴィジュアル系に身を浸していたことを知るインターネットの友人(この人もまたヴィジュアル沼の同郷である)から、「斉藤壮馬のヴィジュアル系歌唱を聴いてほしい」と勧められた楽曲が、よりによって、私の最初にして最長の推しことナイトメアの咲人が提供したものだったのだ。好きな音楽を作る男の作った曲を、好きな声の男が、好きな歌い方で歌うという因果を叩きつけられて、あえなく陥落した。それはまさしく答え合わせだった。内側にばらばらに散らばっていた破片に結び付けられた糸が、するすると引き寄せられ合ってひとつの形を成すような、解けてしまえばなんてことはなく、はじめからそこにあったんだと気づくような。咲人さんがあちこちに楽曲提供しているのは知っていたし、考えてみれば不思議なことではないのだけれど、これは必然だったんだなと思った。私はこの人を好きでいることにしよう、と決めた。

腹をくくって、ブログ記事やメディアの連載を読みはじめたら、どうして私はもっと早くこの人のことを好きになっていなかったのだろう、といっそ不思議になった。こと、出版社の選書フェアに寄せたエッセイにはあっけにとられた。言葉選びが好きというだけならばけっこう出会えるのだけれど、文体はわりあい自分がこだわりの強いほうなので、他者の文章で好きだと感じることはすくない。だからこそ、言葉のえらび方、漢字のひらき方、読点の打ち方、何もかもがど真ん中に好みの文章を眼前につきつけられて、動揺すらあった。ブログのラフな文体で、好きかもしれない、と感じた自分の嗅覚は間違っていなかったらしい。たった今も、これを書きながら彼のラジオ番組を聴いていたが、「あまり改行するのを好まない」というようなことを言っていて、だから好きになったんだよなと思っておかしくて笑った。

かくして声が好きな人は、好きな人になった。好きを知覚した瞬間に世界はワントーン明るくなる。彼を好きになったことでこれからまた新しく出会うものが増えていくんだろうなと思うと、今、すごく楽しい。