違和感の輪郭

自分がただのいれものにすぎないのでは、という恐怖にさいなまれて長い。否、いれものにすぎないのだろう、誰しも。それは必ずしも忌むべきことでもおそれるべきことでもない。すこしまえに流行った「神様が〇〇をつくるとき」というネットミームのように、注がれた要素の違い、濃度や量のわりあいが異なって、他者と異なる、ひとりの人間が形作られるのだろうと思っている。それでも、その私の中身を決定するのに、私の意思が介在していないかもしれないことが怖い。たとえば、私は自らを形容するのに「バイセクシャルの左翼フェミニスト」という表現をよく用いるけれど、実のところ、左翼という政治思想を自分が選んでいるのかと問われると、かなり自信がない。政治思想とは、社会で生きるうえで何を重んじるかであり、すなわち生き方の志向のことだ。自分が左翼である根拠に確信を持てないというのは、自分の生き方の正当性を、自分の中に見つけられないということでもある。両親ともにリベラルだし、そういう両親が選んだ教育を受けてきたから、教員も筋金入りの左翼ばかりの環境で育ってきた。私にとって左翼であることは、与えられたままにあたりまえに享受するものであり、思考停止であって自分で選びとった在り方ではなかった。そのことに引け目を感じてきた。

それでも、最近はすこしずつ、その感覚と折り合いをつけられるようになりつつある。親元を離れ、ひとりで生きていくようになって、見聞きするすべてを自分ひとりで選べる身になって、世界には思ったよりも、違和感をもたらすものが多いということを知ったからだ。私は守られていたのだ。親が正しいと信じる思想のうちがわで。今だって確証バイアスの効きまくった安全圏にとどまっている自覚はあるけれど、でも今の私は、それを捨てることだってできる。そうしないのは、私がこの生き方を能動的に選んでいるということにほかならない。

安全圏のうちがわでたゆたっているとき、私は同質の他者と同化していて、その境界は曖昧だ。違和感をもたらすものは、だから、私の輪郭を教えてくれる。違和をおぼえるということは、そこが私にとって安全ではないということだ。おまえはこれを許容できない人間なのだ、と教えてくれる。自分が何を好きだと思うか、という命題と同じくらい、自分が何を好きでないと思うかを考えることは、自分を知ることだ。

どうしてこんなことを考えているかというと、このひと月弱、それなりの時間をつぎこんでいるヒプノシスマイクという作品が、どうしても肌になじまないからだ。女尊男卑の世界観にわだかまりが残るというのもそうだが、キャラクター設定にも、なんだか釈然としないものを感じる。

二面性とか表裏とか、そういう落差のある特性を、わかりやすさの程度はあれど、どのキャラクターもなんらかの形で付与されている。そして、その二面性と切り離せないかたちで、大きな痛みをかかえていることが多い。私が引っかかっているのは、作品をとおして、その痛みが軽んじられているように感じることだ。はじめにそれを感じたのは一二三の女性恐怖症のあつかいだったが、十四のいじめや左馬刻の家庭内暴力と母の自死、山田兄弟の境遇なんかも、そんなノリで消費させないでくれ、と思いたくなる。戦争の位置づけも軽薄。キャラクターや世界に奥行きを出すために、ちょっとばかり重たい設定を付加してやるか、という匂いがする。搾取といいかえてもいい。女尊男卑の設定の話をしたときにも書いたが、「ぜったいにこうでなくてはいけない、この物語はこうでしかありえない」と思わせる説得力がたりないから、よけいにそう感じるのかもしれない。そういう雑さ、甘さを考えるとさもありなんという感じではあるけれど、フィクションだからという開き直りを感じるというか、たとえば自死遺族だったり、大事なひとを亡くしていたり、トラウマをかかえていたり、そういうものを単なる設定として利用するという作品の姿勢には、「こちら側」にも同じような問題を経験した当事者が存在しうるということを考慮されていない、無神経な無邪気さがあるように思う。それぞれが抱える問題の残酷さや、それによって苦しむ彼らの弱さといった部分に、作品として真摯に向き合うでもなく、「皆いろいろあったけど、それぞれ今たくましくやっている」という賛美の仕方で回収する。傲慢だし、不誠実だと思う。設定として使いやすいところだけをうまく使っているな、という感じ。たとえばイケブクロとヨコハマの"WAR WAR WAR"の冒頭で左馬刻が「てめえの遺言聞かせてみろ」と啖呵を切るのだけど、母親を自死で失った人が、たとえディスとしてでも、これを言えるものだろうか、と思ったりする。私の解釈違いといってしまえばそれまでだが、キャラクターを、それぞれの傷をほんとうに深く掘り下げようとしたら、こういうふうにはならないんじゃないか、と思ってしまうような、そういうのが随所にある(でもこれは一方で、「性被害にあった人は笑えないはず」というような言説と同質の、私の中にあるスティグマの問題でもあるかもしれないので、自省は続けたい)。

サブスクリプションに出ているドラマトラックを完走して、コミカライズには手を出していない(ネタバレ記事はいくつか読んだ)時点での感想なので、もうすこし踏み込んだらまた違う感じ方をするようになるのかもしれないけれど、今の自分がこういう違和感を感じとったというのは残しておきたかった。