2021/10/18

午前七時、アラームで目を覚ます。このところ毎朝床に落ちていた布団が、今朝はしっかりとからだに巻き付いていた。カーテンを開けようとのばした腕が布団の外側に触れて、しんと冷えた布の感触に意識がひっぱりあげられた。ひっこめた腕が今度はあたたかな空間に包まれて、嬉しくて幾度か腕を出し入れして温度差を楽しんでいた。季節のうつろいを、肌が、からだが思い知る瞬間が好きだ。

新居は窓が多い。リビングには腰窓が大小あわせてみっつ、寝室に掃出、書斎に小さな突き出し窓がふたつ、浴室に片開き、キッチンからベランダに通ずる勝手口のドアには上げ下げ窓がはまっている。起きるとまず、それらを開け放つのが、新たな習慣になりつつある。とくにリビングの腰窓と勝手口はちょうど相対する位置にあるので、よく風がとおる。食卓についていると金木犀の匂いをまとった空気が頬をくすぐっていくこともあって、家が呼吸をしているのを感じる。暮らす前からこの家のことを好きになるだろうと予感していたけれど、期待をこえる。でも、あと数日もすると、寒くてこれもできなくなるのかもしれない。今日は半袖のうえに厚手のトレーナーを着たが、それでも朝食を食べているとき、冷気で肌がそわついていた。

ごみを捨てて、コーヒーを淹れて、ハムとチーズをのせてトーストを焼く。朝食の用意をしながら音楽を聴いていた。一日のはじめとか、一週間のはじめとか、そういうときに聴く音楽というのは、それからしばらくの過ごし方を決めるもののような気がする。だけどいまひとつ朝に聴きたい曲というのが思いつかなくて、端末に登録した曲をシャッフルにした。それでたまたま一曲めに流れてきたのが好きな声優の曲で、いざ聴いてみると、これが聴きたかったのかもしれないと思った。「冬の朝ってきれいね」と好きな声でやわらかに流れてきて、すっかり嬉しくなった。

結晶世界

結晶世界

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初めて聴いたときから、「きみはどうしてそんなふうに 月の裏側みたいに笑えるんだい」という歌詞が、ずっと耳に残っている。月の裏側みたいに笑うというのがどういうことかはぜんぜんわからないけど、その言葉のつらなりの美しさと、さみしさと、冴えたつめたさの手触りが気に入っている。彼のつかう言葉が好きだな、と何度もなぞるように確認して刻み込む。この日最初の音楽が、このひとのもので良かった。

仕事はずっと気持ちがゆるめられる状態になくて、あいかわらずの自転車操業。相性のあまりよくない人と仕事をするのはしんどい。自分が苛立っていることを自覚して、その卑しさに何よりも消耗する。高潔な人間であると思ったことはないけれど、せめて高潔であろうとすることすら怠る自分をゆるしたくない。谷川俊太郎のエッセイにあった、「心が満員電車のようにぎゅうづめになっていては、ゆとりがもてない」という一節を反芻しながら、ぎゅうぎゅうになっているなあ、とため息をつく。

これまでなら昼食も抜いていただろうが、ここでおろそかにしたら、そのあともっと調子が悪くなるのが見えていたから、会議の時間をずらしてもらってホットケーキを焼いた。書斎とリビングがわかれたから、リビングは明確に「仕事をしなくてもいい場所」になった。あなぐらのような書斎を抜けてリビングに戻ると、なんだかゆるされた気になってほっとする。このときも台所で好きな声優のアルバムをずっとかけていた。彼の音楽は、明るい昼さがりが似合うものが多い。今彼のことを好きでよかったと心底思った。ホットケーキはひっくりかえすのを失敗したけれども。

夜、八時過ぎになってから会議資料についてあれこれ指摘が入った。その内容自体はまっとうなものだし、そもそも資料作成がぎりぎりになったのは明らかに私の落ち度なので、何も言えることはないのだけど、それはそれとして落ちこむ。相手に人格否定の意思がないことはわかったうえで、それでももうすこし言い方に気をつかってくれてもいいのにな、と思うが、そういうのが通用するひとではないのは散々思い知っている。というか、これでも良くなったほうだ。もうあとは私が耐えるしかない。正論は暴力だけど、そもそもここは弱いことが悪の世界だ。この暴力に耐えられない人間は淘汰されるしかない。でもこうやって自分が悪いってことにしてかたづけようとするのも、ある種の正常性バイアスなんだろうな。

夕食は、鶏肉の塩麹漬けの焼いたものと、玉葱とわかめのスープ、作り置きのほうれん草のナムル。スープは玉葱を櫛切りにして茹でて鍋キューブをほうり込んだだけだし、鶏肉も焼いただけで、十数分程度でできあがる程度のものだけど、以前の自分なら、この時間から料理をしようだなんて思うことはなかった。朝のうちに鶏肉を解凍しておいた自分を褒めてやりたい。おいしかった。