脱・ぎゅうづめ

先日読んでいた谷川俊太郎の『ひとり暮らし』というエッセイ集に、「ゆとりとはまず何よりも空間のことである」という一文があった。

ラッシュアワーの満員電車のように、心がぎゅうづめになっていてはゆとりはもてないだろう。心にぎゅうづめになっているものがなんであるかは関係ない。それが欲であろうと、感情であろうと、思考であろうと、信仰であろうと、動かすことのできる空間がなければ、息がつまる。

ごくあたりまえな、素朴な論理だけれど、読んだときは目の覚める思いだった。

勤めはじめたころに比べたら、仕事をすこしずつコントロール下におけるようになってきているとはいえ、ひとりで暮らしていると食事の優先順位はひくい。空腹をおぼえたときに、何を食べるかについて思考が奪われるのが嫌で、冷凍の宅配弁当ですませるような生活をしばらく続けていた。楽なのはたしかだったが、そうして無理に作ったゆとりさえ、仕事のことを詰め込んでいた。ある晩、口に合わない弁当を食べながら、こんな生き方をするために食べる楽しみを犠牲にしたんじゃないのに、と思って悲しくなったこともあった。

引っ越して、所有する空間がひろがって、谷川俊太郎の言葉をしみじみと感じる。得たのは、物理的なゆとりにとどまらない。仕事をする空間と、食事をする空間や本を読む空間、文章を書く空間が分かれることの意味は、想像以上におおきかった。仕事のことは、仕事をする空間に残しておける。心のメモリを解放できる。

そうして手にしたゆとりで、本を読んだり料理をしたりしていて、それはそれで心をぎゅうづめにしているだけのような気もするけれど、でもそれがすごく楽しい。ただでさえたいしたことのない料理の腕は、この数年でずいぶんと鈍ってしまったから、かんたんなものしか作れないが、凝ったものでなくても、自分で作って食べるというだけでちがうように思う。これは私が私を愛するこころみについての記録。

10月2日(昼)

モンティクリスト。

10月3日(夜)

卵焼き、ほうれん草のナムル、茄子とトマトの味噌汁、納豆、雑穀米。新居でちゃんと火をつかった初めての料理。

10月6日(夜)

茄子とピーマンの味噌炒め、卵とトマトの塩炒め、焼き鳥(惣菜)、雑穀米。卵とトマトの塩炒めはいつも卵に火を通しすぎてしまうのだけど、この日はいい具合に半熟にできた。

10月7日(昼)

ピーナツバターアンドジェリーのトースト。5月の連休に元恋人とサンドイッチを大量に作って公園でピクニックをするというのをやったのだが、そのときに食べたピーナツバターアンドジェリーが恋しくなって、わざわざピーナツバターを買いに行った。

10月7日(夜)

親子丼。出勤日で、帰りもまあまあ遅くなってしまったので惣菜でも買って帰ろうと思っていたのに、なんだか作りたいなと思って、惣菜のかわりに鶏肉と玉葱を買った。それなりに疲れていたのに、それでも作りたいと思った自分に何よりもおどろいた。出来は上々。

10月8日(夜)

冷や汁、茄子の煮浸し。元恋人がつくってくれた。往生際のわるい夏を惜しむみたいな顔ぶれ。この五、六年の付き合いのなかで、交際していた時期をふくめても、元恋人の料理を食べるのは二度目である。ツナ缶をつかった手抜きバージョンの冷や汁ならば作ったことがあるけれど、ちゃんと焼き魚のほぐした身が入っているのはずいぶん久しい。とてもおいしかった。また休みの日には作りに来てくれるというので、中華か洋食を希望しておいた。

10月12日(昼)

茄子とトマトのパスタ。トマト缶はなかったので、味付けはコンソメとケチャップ、それと塩胡椒のみ。出張前に使い切らなくては、とありあわせで作ったものだったが、これがとんでもなく美味しかった。

10月18日(朝)

ハムとチーズをのっけたトースト、それとコーヒー。

10月18日(昼)

ホットケーキを焼いた。

10月18日(夜)

一日三食というのがまずめったにないが、毎食何かしら作っているというのは、輪をかけて稀な話である。朝のうちに冷蔵庫にうつして解凍しておいた鶏肉を塩麹に漬けて九条葱と一緒にやいたもの、ほうれん草のナムル、玉葱とわかめのスープ。午後九時に会議を終えてから作るものとしては上出来すぎるくらいだ。

10月19日(昼)

前の日のホットケーキのたねの残りを使った。一度冷蔵庫で寝かせたのがいけなかったのか、あまりふんわりとふくらまなくて、前の日のほうが美味しかった。

10月19日(夜)

23時に帰宅したのに味噌汁を作った。えらすぎ。あとはスーパーで買った惣菜の餃子と、クラゲと鶏肉の冷菜。

10月20日(夜)

元恋人が夕食を用意してくれるというので、シチューをねだって作ってもらった。ふたりでビールを二本、赤ワインを一本開けた。元恋人はガリガリくんのシチュー味がする、といいながら食べていた。シチューがガリガリくんの味なんじゃなくて、ガリガリくんがシチューに寄せてきてるんだよという話で腹を抱えて笑ったりしていた。

10月22日(夜)

ポトフとトマトパスタ。元恋人がやってきたときにちょうどできあがるという、神がかったまぐれを発動した。元恋人の料理を食べる経験もすくなかったが、思えば私の料理を食べさせるのは初めてである。この日も赤ワインを一本開けた。

10月25日(夜)

鮭とほうれん草のクリームパスタ、ブロッコリーのにんにく醤油炒め。パスタは味が薄かったし、もうすこし生クリーム少なめでもよかった。重かった。ブロッコリーは火加減が難しい。

10月26日(昼)

目玉焼き、火を通しすぎた。

10月26日(夜)

鮭のムニエル、キャベツとマッシュルームとソーセージのミルクスープ、ブロッコリーのにんにく醤油炒め(残り)、かぼちゃの煮物(惣菜)。前の日の鮭の残りを使い切りたかった。ごみがにおうのが嫌で、ひとり暮らしをしてからめったに魚を買ったことはなかったけれど、切り身ならその心配はないし、かんたんだし、もっと早く挑戦してみればよかった。味は悪くなかったけれど、ムニエルは最後に作るのが正解だった、と反省する。スープの具材に火が通った頃には、すこし冷めてしまっていた。ミルクスープのキャベツとマッシュルームはポトフの残り、生クリームはパスタの残り。残っている食材の中から、何が作れるか、何が食べたいかを考えることは楽しい。

10月29日(夜)

回鍋肉、豆腐となめこの味噌汁、かぼちゃの煮物(惣菜)。作り終えてから、米を炊き忘れていたことに気がついた。空腹だったし、諦めてそのまま食べてしまおうかという思いもよぎったが、やはり回鍋肉で白米をかきこみたいという欲求に勝てなかった。炊きたてのご飯にしっかりした味の肉でビールが進んだ。

 

出来栄えに点数をつけるならば、たいしたことはないだろう。味は薄かったり濃かったりしてむらがあるし、手際もよくない。それでも、自分が食べるものを自分で作るというのは、ただ栄養を摂取するという以上の意味がある行為なのだ、というのを身をもって感じることのできたひと月だった。霜月もがんばるぞ。