2021/11/15

日付はとうに変わって午前一時。眠いし、明日は仕事だ。しかも朝から会議である。睡眠をえらぶことが理にかなっている状況だというのはわかるけれど、今からだの奥で渦巻いて、呼吸を妨げている重苦しい感覚は、睡眠では消すことができないのを、私は知っている。そう悪くない日々を送っている。生活の基底をなす政治が崩壊している以上、どうしたってまるきり安心して暮らすことはできないけれど、不安定な足場のうえにどうにか築いている生活の部分だけに焦点をあてるなら、総じて幸福に寄っている、と言っていいだろう。それなのに、ぐるぐると砂嵐が内側で吹き荒れていて厄介だ。何が不満だっていうんだろう。
 
数日前の夜中にここまで書いて、けっきょく眠らないことで翌日に支障がでることのほうが怖くて、途中で書くのをやめて眠った。そして今、まったく同じ夜をくりかえしている。これを書いたときの私の予見は外れておらず、翌日は快晴の蒼空とうらはらに軽い死にたさがくるくると腹の底で舞っていた。たぶん、明日もそうなる。眠ることも眠らないことも怖い。
 
好きな写真を撮る人が、調子が悪いときの自身を「10時間寝ても、朝にケータイの充電でいったら30%くらいしかいってない感じ」と形容していた、その感覚がよくわかる。あるいは、心がぐずぐずに膿んでいるとでもいうような。生活しているぶんには痛みはあんまりない。傷の処置をするのもめんどうで、だからそのままにしてしまって、ふと直視するとけっこうエグい傷口になっているのだ。
 
勤めはじめて四度目の冬だ。思い返せば、この時期は毎年調子を崩している。毎年恒例の、と笑い飛ばそうとしたところで今のこの息苦しさがまぎれるわけでもない。
 
折り合いの悪い人間と付き合う、という状況を回避しつづけて二十八年弱、これまでの運が良すぎただけなのだろう。他者に対して負の感情を抱くことほど無駄なことはないと思っている。こちらが消耗することが癪だから、なるべく視界から締め出して、距離をおいて生きてきた。私の世界は大多数の興味のないひとと、ひとにぎりの好きなひとだけで構成されてきた。人を嫌う、苦手に思う、という経験をほとんどしてきていないから、好きではないひとに対して自分のなかに惹起されるあらゆる反応への耐性がない。
 
そのひとは、とにかくひとの話を聞かない。こちらが10言おうとしているうちの1か2を話し終えるかどうかというところで、遮って自分の意見を述べはじめる。くわえて、自分が正しくて、自分以外は間違っているというのが基本的な姿勢だから、だいたいが否定形だ。「いや」とか「でも」とか言われ続けることは、それなりに傷つく。ひとつひとつは些細であっても、悪意を感じなくても、人格攻撃をされていなくても、だ。発言の内容はまっとうで、正論で、言いたかったことをぜんぶ言えないまま私は黙るしかない。私の言葉は、思考は、必要とされない。同僚はそのひとを「行き先は間違っていないけど、道を通らずに藪とか他人の敷地とかを突っ切って最短ルートを通っちゃうひと」と評した。私がそこに食らいつく気概がないことは褒められたことではないのかもしれないけれど、こちらの存在を、思考を、感情を、いっさい考慮してくれないくせに、ついていけないことにだけ文句を言われることも理不尽に思う。そんなひとに、ついていきたいだなんて思わない。
 
相性が悪いということは、相手が悪いことをかならずしも意味しない。敵意や悪意を向けられているのならばまだしも、私と相容れないというだけで、そのひとのことを否定的に思う資格は私にはない、と思う。だからこのごく個人的な真っ黒なかたまりを吐き出すことにずっとためらいをおぼえていたけれど、でも、だって、苦しい。楽しいことも嬉しいこともたくさんあるのに、それらが負の感情で打ち消されていく。そのことに打ちのめされる。奪わないでほしい。こんなふうに感じるのは自分が低俗で幼稚で未熟だからなんだろうか、という罪悪感もあいまって、ただ仕事をしているだけなのに日々削られていく。呪詛で身をやつしたくない。
 
空はすっかり白んだ。好きな声優のラジオアーカイブをひたすら聴いていたらすこし気持ちは凪いだ。好きな本とか好きな漫画の話をしてくれるのは嬉しい。好きを嫌いの相殺につかうことに後ろめたさはあるけれど。斉藤壮馬さんは、地に足のついたひとだなと思う。仕事で接するものもふくめたら、膨大な量の作品と相対しているはずだと思うのだけれど、ひとつひとつを咀嚼して消化することを怠らない感じがする。そういうひとが、そのひと自身の言葉で話してくれるのを聴くのはおもしろい。先週のラジオで自分の送ったおたよりが読まれたことを反芻しては、あたたかな光が胸に灯るのを感じる。私にとって価値のないひとなんかに削られていられないな、と朝日を眺めて思う。もうこのまま起きてしまおう。