2022/1/27

午前中は会社の健康診断へ。体重も身長も昨年からほとんど変わっていないし、ぎょっとされるほどの低血圧だったのもここ数年は改善しているし、おおむね健康であろうと思う。しかし、このごろめっきり体を動かしていないので、あちこち錆びついている感覚があって、これはそろそろどうにかしないとまずいのではないか、という焦りがある。

社内郵便で中国支社の同僚から届いていた新年のカードを、ようやく受け取った。箔押しの鳳凰のイラストが施された美しいカードに、達筆な日本語で丁寧なあいさつが書いてあった。朱華色のタッセルがついた、金属製の鳳凰の栞も同封されている。支社のリーダーに、遅くなったけれど受け取りました、とチャットで礼を言ったら、支社のメンバーは皆あなたのことが大好きですよ、いつか中国にかならず来てくださいね、と返答が来て、嬉しくて思わず泣きそうになってしまった。一年以上一緒に仕事をしてきているが、一度も顔を合わせたことのない、海の向こうのひとびと。感染症さえなければ、と思うと悔しい。

もうひとつ、日頃直接的にかかわることのない、隣のチームのちょっとえらいひとに所用で連絡したら、その返答のついでに、先日までやっていた仕事のねぎらいの言葉をもらった。きみが隣のチームのリーダーをやってくれたおかげでこちらも助かったよ、という。無愛想でぶっきらぼうで無表情、というタイプのひとであるだけに、なおのことその言葉が嬉しかった。

六時半過ぎに退社し、有楽町へ。斉藤壮馬さんがナレーションを務めるプラネタリウムのプログラムがまもなく上映終了するというので、会社からもそう遠くないからと迷わずにチケットをとった。ミクロネシアのちいさな島からの星空を楽しむ、という内容だ。星空はもちろん、海中の映像や、明るい青の海と島を俯瞰した映像が視界を満たして、プラネタリウムってこういう楽しみ方もあるのか、と驚いた。地下鉄の出口を間違えたせいで上映開始ぎりぎりに駆け込むはめになって、席についたときには体が火照っていたのだが、それがまた、燦々と降りそそぐ南の陽光の熱を肌に受けたみたいに錯覚させて悪くなかった。島に夜が訪れ、星がひとつ、ふたつと見えはじめるのと同時に私のからだの熱も落ち着いて、耳に届く波音も相まって、ほんとうに浜辺に横たわって、気温が下がっていくのを肌で感じているような。澄んだ青い海も星も、ずいぶん長いこと見ていない。学生の頃に友人たちと行った小笠原の海と、肺いっぱいに空気を吸い込みたくなるようなそわそわした気持ちを思い出して、ちょっぴり涙が出そうだった。どこか遠いところに行きたい。ここじゃないどこかに。うっとりするばかりで、壮馬さんのナレーションの内容はあまりよくおぼえていない。たぶん、それで良いのだろうと思う。彼のつかう言葉が好き、という話ばかりしているが、そもそも声が好きだったから好きになったのだ。声が好き。好き、という感覚には、脳にびりびりぐわんぐわんと響くような衝撃を与えてきたり、心臓を引き絞られるみたいにぎゅうと苦しくさせたりする苦痛属性のものと、じんわりと自分の細胞のあいだに染み込んでなじんで、そこがぼうっと熱を持つ、みたいな熱属性のものがあると思っている。壮馬さんの言葉や文章に対する好きは前者、声が好きなのは後者(ふしぎなことだけれど、同じ「声が好き」でも、ジノの声に対する好きは前者)。映像の内容にあわせた、おだやかでひくめの声音が心地よくて、気持ちがほどけていくのを感じた。至福だった。プラネタリウムは、そのうち行きたいなあと思いつつも、なかなか足を伸ばせていなかった場所でもあったので、壮馬さんをきっかけにこうして来られて嬉しい。本を読むことにしてもそうだけど、長いこと憧れながらも能動的に行動に移せていなかったことへの最後のひと押しになってくれる、ということが多くて、壮馬さんを好きでいることが楽しくてしかたがない。私の歩きたい道を差してくれる羅針盤みたいな。あるいは海のうえの月光の路。たのしいね。