無題

本を読んで、ゲームをやって、テレビを見て、そうして時間がすぎていく。何をしていても間違っているような気がする。いや、違うな。おまえはこれまでだよ、という声がやまないのだ。これ以上、何をしたって無駄だよ、という声。生きていても無駄だよ。言い返したい。言い返せない。生きる意味を見いだせないことにこんなに憔悴してるの?いまさら?馬鹿みたいだ。人間に生きる意味なんてものはないだなんて、とっくの昔に至っていたはずの結論でしょう。

このところ本を読めるようになって、嬉しかった。これで自分は救われる、と思った。この数ヶ月で読んだのはたかだか数十冊だ、そんな程度で救われようと思っていた自分が甘いだけだということはわかっている。それでも、読めば読むほど迷い込んでいくようで、何もかもわからなくなっていくだけだ。自分が何を感じたのか、何を感じればよかったのか、読み終えるたびにわからなくなって途方に暮れてばかりいる。幼い頃、頻繁に観ていた夢のことを、このところよく思いかえす。周囲の景色がぐんぐんと拡張していって、自分が相対的に小さくなっていって、次第に世界に飲み込まれるような恐怖におびえて目を覚ましていた、あの感覚。

昨年、サリンジャーの "Catcher in the Rye" を読んだ。すごく好きではあったけど、太宰治とかドストエフスキーとかと同じように、十年前に読むべき作品だったな、と思った。トルーマン・カポーティの短編集『誕生日の子どもたち』を読み終えて感じたのもある意味では似ていて、こちらはかえって若い頃に読んでもわからなかっただろうと思う一方で、今読んだことで、おとなになってしまったことの悲しさをまざまざとつきつけられた。自分の輪郭を理解するにつれ、存在の矮小さを、思い知ってばかりいる。

電撃的な、運命の出会いをずっと求めている。単調な日々をがらりと劇的に塗り替えてしまうような、雷につらぬかれるかのような何かを。そういう何かに出会えないまま一日が終わったことに今日も落胆する。このまま見つからないのではないかとおびえながらも、読み続けていればきっと何か光が見えてくる、そう祈るような気持ちでページを繰っている。好きな声優がエッセイで書いていた、「ほんとうに好きとはどういうことかわからない、でもそれを知るためにこそこれからも本を読む」という一節を思い返しては、自分だけの孤独ではないことに力をもらう。

そもそも、救われたいだとか、運命に出会いたいだとか、書物を読むのにそういう期待をすること自体が誤りであるようにも思える。自己啓発本の類を馬鹿にしているくせして、けっきょく自己啓発されたがっているだけじゃないか。マキノノゾミの戯曲『東京原子核クラブ』の一場面を思い出す。物理学者の小森という青年が、巷で話題の、家族を題材にした新劇を観てひどく感動したということを、同じ下宿に住む売れない劇作家の谷川に話して、谷川が激昂する場面である。

谷川 お前、その『おふくろ』って芝居観てどう思ったんだ?
小森 どうって……ああ、おふくろさんは大変やなあ、と。(中略) 自分も、親孝行せにゃいかんなあ、と。
(中略)
谷川 いいか。作家、芸術家ってのはなァ、高邁にして世俗の塵にまみれず孤高己を持してるもんなんだ。それが、そんな修身の教科書みてえな下世話なる実用的効能を生んだとなってみろ。俺だったら恥ずかしくて首をくくりたくなるね。(中略) いいか、芝居はな、いつだって芝居のためだけにあるんだ。それ以外に何の役にだって立っちゃいけねえんだッ。

── マキノノゾミ『東京原子核クラブ』 2008年 ハヤカワ演劇文庫

かつての私は、谷川の言葉に共感した。それが今や、この言葉をぶつけられる側だ。実用的効能ばかりを追い求める人間になってしまった。チェーホフの銃のように、すべてのことに「価値」がないといけないのだと、そういう凝りかたまった考えから抜け出せないでいる。

中島らもは『今夜、すべてのバーで』のなかで、教養とは、ひとりで時間をつぶせる技術のことである、と書いた。あれだけおもしろい文章を書けるひとでさえ酒とドラッグに逃げなければならなかった、という事実が私にはおそろしくて仕方がない。私は私以外になれない。私はどこにも行けない。自分という人間が絶望的につまらなくて、あと何十年これと付き合っていかなきゃならないんですか?マジで?みたいな気持ちが日々強くなる。もうすこし自分のことおもしろい人間だと信じることができていた気がする、数年前までは。死に至る病とはほんとうによく言ったものである。

何にうんざりするかって、こんなことで悩んでいられるのは私が衣食住に困ることのない生活を手にできているからだってことだ。ぬくぬくと暮らせる特権を持っている側の人間だからだってことだ。もっと直接的にいのちをつないでいくことを脅かされているひとびとがいるのに、こんな泥濘にとどまっていられることが恥に思える。