2022/2/16

月曜の夜に自宅に戻ってきて、すこしばかり荒んでいた気持ちが落ち着いたと思ったのだけど、そのあともどうにも立て直しきれていない。昨日は仕事を終えてから好きな声優の悪口が書かれた掲示板を延々とさかのぼるというのをやってしまって(ときどきどうしようもなくやりたくなるのだ)、書き込まれている内容自体には思いのほか傷つくことはなかったものの、やはり悪意のある言葉にさらされ続けたせいでたましいが濁った感じがある。目が覚めてからもその後味の悪さを引きずっていたが、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読みすすめているうちにすこし取り戻した。ああ今読みたかった本だなあ、という感じ。ほしい言葉がたくさん書いてある。図書館で借りたものだけど、これは手元においてもいいかもしれない。仕事はほとんど会議だったので助かった。このところ、会議以外の時間にめっきり仕事ができなくなっていて、そろそろこれではまずいんだけど、けっきょく今日も資料作りはほとんど進められないままパソコンを閉じてしまった。ここで終わると自分を愛する気持ちが地に落ちそうだったので、ここ一週間さぼりにさぼった資格の勉強だけはどうにか再開したけど、あまり頭に入ってきた感じがしなかった。

よかったのは、抜けるような空の青さに誘われて、昼食がてら近所をひとまわりできたこと。ひいきのカレー屋に行こうかと思って家を出たが、けっきょく別のところにした。ながらく気になっていながら入ったことのなかった、こぢんまりとした蕎麦屋だ。うまかったが、酒が飲みたくなってしまったので後悔した。蕎麦屋というのは、小料理をちまちま頼んで酒を飲むのがいちばん楽しいところであって、昼に行くところではないのである。この街に住んで丸四年が経つが、いまだに行ったことのない店は多い。ひとつの街を味わい尽くすというのはなかなか難しいことだな、と考えながら食べていた。街は春の空気になりつつある。

夜は気力がなくてよほどカップ麺ですませようかと思ったが、いいかげん冷蔵庫でしなびている蕪と長葱をどうにかしてやりたくて、重い腰をあげた。好きな音楽を大音量でキッチンで流しているうちに楽しくなってきて、途中からは踊りながらつくっていた。料理は頭をからっぽにできるから好きだ。焼き目をつけた長葱と蕪と春雨で中華スープと、卵焼きをつくった。それと作り置きの蕪の葉のふりかけを炊きたての米といっしょに。そういえばつい先日、インターネットで「米を冷たい水で研がなくちゃならないというのは一種の根性論ではないか、暑い場所で炊いた米がまずいわけでもないだろうに」というようなことを言っているひとを見かけて、目から鱗が落ちる思いをした。厳密にはいくらかの違いはあるのかもしれないが、料亭をやっているわけでもなければ、私のほかに食べる人がいるでもないのだから、かりに多少味が落ちたとて、わざわざ冷水に耐えなくともよいのだ。考えてみれば拍子抜けするような話だけれど、米は冷たい水で研ぐものだという先入観を幼少からすりこまれてきたものだから、思いつきもしなかった。それで、今日はぬるま湯で米を研いでみた。味の違いはまったくわからなかった。些細なことながら、これがけっこう私には衝撃だった。学生時代から批判的思考という言葉を散々たたきこまれて、物事を疑ってかかる視線はそれなりにそなえたものだと思っていたけれど、こんなところでとらわれていたりする。自分からしたら眉をひそめたくなるような前時代的価値観を、疑いもせずに引き受ける人々を見て、どうしてこんなことも理解できないのだろう、と訝しんできた過去まで思い起こして、なにやら恥ずかしい気持ちになった。米を冷水で研がなくていい、というのは、この季節においてはちょっとした革命である。

食後は、なんとなく目に留まって『大豆田とわ子と三人の元夫』の一話を見た。「ひとりでも大丈夫なひとは大事にされないんだよ」という台詞が妙につき刺さってしまって、ちょっと痛い。松田龍平演じる田中八作という男の佇まいとか話し方が、おそろしいほど元恋人にそっくりで、居心地が悪かった。

大事な友人からひさしぶりに連絡が来ていた。私のせいで一度は途絶えた関係を、やっぱり失いたくないと思って唐突に身勝手に連絡したのが去年。そのあとも私の筆不精のせいで半年以上連絡をとれていなかったが、さきほど、また落ち着いたら食事に行こうとメッセージが来ていて泣きたくなってしまった。うれしい。