2022/3/5

昨夜、いきなり気分の落ち込みががたんと来た。仕事を終えて、うまくいかないと思っていることを上司に電話で伝えてすこし靄が解消されて、近所のファミリーレストランでパフェを食べて、帰宅してからしばらく文章を書き耽っていたところまではよかったのに。日付が変わった頃、前触れも脈絡もなく突然来た。ソファの上から動けなくなって、クッションに突っ伏して泣きはじめてしまって、自分でもわけがわからなくて何してるんだろうとちょっと冷めた気分にすらなった。そのまま午前二時近くまでソファの上で放心していたけれど、起きていてもどうにもならないということだけはわかっていたから、どうにか布団まで移動した。たっぷり眠ったら気分もすこしは立て直せるだろうと思ったけれど、起きても気分はわりと最悪なままだった。けっきょく午後二時前まで何もせずに布団の上にいたが、ただ横たわっているうちに、だんだんと馬鹿らしくなった。私が落ち込もうが、ベッドから起き上がれなかろうが、悲しかろうが、何もしたくなかろうが、私を慰めたり励ましてくれたりする人はいない。誰も助けてくれないし、金を稼いで家事をして、生活をまわしていくのは私しかいない。横たわっていたところでその事実が消えてなくなることはない。自分の感情を相手してやろうとするだけ無駄なのかもしれない。これが良い解決策だとは到底思えないけれど、とにかくそう思い至ったら起き上がることはできたし、そのあと掃除も洗濯も洗い物もやった。

ひとまわりくらい歳上の同僚たちと話していると、皆口を揃えて「結婚しないなんて選択肢を考えたことがなかった」と言う。私が結婚に全然興味がないんですよね、今すごく楽しいので、というと、羨ましがられることもある。今同じチームで組んでいる女性は、もしもう一度人生をやり直すなら子どもは産まないと思う、とぽつりと言った。でも、それがあたりまえだと思っていたんだよね、という言葉に、私はなんと返せばいいかわからなかった。家族がいることの幸せを私は知らないけど、そういう姿を見ているとなおのこと誰かと生きていくことへの魅力はあまり感じない。ひとりでいることを望んで引き受けているところはあるし、おおむねそれで満足している。ただ、ひとりでいることを選ぶことは、孤独でいることを選ぶことではない、とも思う。エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』において、近代社会が手にした自由はひとびとを孤独という恐怖に晒すことにもなった、自由から逃走しようとするのは孤独から逃走するためである、と述べる。私が今日、布団から抜け出るためにみずからの感情と向き合うことを放棄したのもこの逃走にほかならない。自分を無視するというのは、まさにフロムがいうところの自由からの逃走の手段のひとつだからだ。みずからを機械化すること。自己を手放すこと。このところずっと、孤独が自分を卑屈にしつつあることを感じる。他者を下に見るような思考や発言が以前より増えているのも自覚している。これも逃走の機序で説明されることだ。 そういう自分に抗いたいと思う自分がすこしずつ弱くなっていることも感じる。そうやって使う言葉が粗雑になって、自分のことをもっと愛せなくなる。ここには一人しかいない。私は誰かと心からつながれないのだ、という絶望感は今日もなくならない。置いていかないでくれよ、ってずっと思っている。わかってんだよ生理前のいつものやつだなんてことは。