劇団四季『ノートルダムの鐘』鑑賞後記

六月四日。ずっと、ずっと楽しみにしていた日。劇団四季の『ノートルダムの鐘』を見てきた。悪友がとんでもない強運を発揮して、10列目のど真ん中という、これ以上ないほどの良席での鑑賞。再演が決まってからというもの、ほんとうにこの日を心待ちにしてきた。サウンドトラックだけで心を奪われて、ディズニー版も観たし、ヴィクトル・ユゴーの原作もしっかり読んだ。はじまってしまうことが怖くて、惜しくて、嬉しくて、音楽が鳴りはじめるまで緊張で体はこわばっていた。あらかじめ覚悟はしていたけれど、それにしても最初のクワイヤの歌声が響いた瞬間から目の奥がぎゅうっと火がついたように熱くなったし、『陽ざしの中で』を聴く頃にはじゃあじゃあと決壊したように泣いてしまって、舞台を見るどころではなかった。それでも、この目に焼き付けられるのはたったの数回だからと、ゆらゆらの視界のまま、賢明に観ていた。

終演後、同行した悪友と、大学の後輩と、横浜中華街で遅めの昼食をとりながら、日本の入管制度に重ねた作品解釈について話して、一様に暗い気持ちになった。私たちは無力で、でもその無力さへの怒りとむなしさを共有できる相手がこうしているから、まだ怒っていられるのだ、と思った。

どんな作品か、という問いに答えることはそう難しくない。だが、何がこんなにも私の心を捉えてはなさないのかと問われても、よくわからない。ただ、深々と刺さっている。幸福になりたい人のための作品でも、楽しくなりたい人のための作品でもない。ここにあるのは、最初から最後まで、怒りと悲しみだ。8月までの公演は連日完売で、それは延べ三万人近くがこの作品を観ることになるということだ。そのうちのどれだけが、怪物と人間の違いについて、作品の外で考えるのだろう。自分がそういうことを考えているから偉いといいたいわけではない。排外主義に虐げられて住処を手放すことになったときの、クロパンの「今度こそここで長く暮らせると思ったのに」という悲痛なつぶやきと同じものを、今の日本で感じることを強いられる人がいる。それを忘れないでいるための作品だ。私が、人間を人間として扱う人間でいられるように、立ち止まらせてくれる作品だ。私は排外主義に迎合しない。してなるものか。あと三回、大事に、大事に観る。