無題

五月の連休が明けてから、余韻に浸る暇もなく忙殺されていた日々がようやく落ち着きを見せつつある。一時期は何をしていても胸に重石が載っているかのような息苦しさがあったのだが、それがだいぶ軽くなってきた。業務量そのものが落ち着いてきたのもあるが、五月の後半から、仕事のやり方を変えたのも良かった。どうせ定時では終わらないのなら、いっそ午後七時前には一旦切り上げて、夕食やら入浴やらをすませて、また夜に数時間集中する、という方法にしたのだ。食事をつくって食べるというまとまった時間があると、不安感の泥沼に足を取られ続けることがなくなるので、思考が曇ることが減った気がする。もちろん食後の労働時間をなくすのが目指すところではあるが、自炊をする余裕もあるし、好きなことをする時間もとれているし、睡眠も足りていないわけではない。

しかし、物理的に健全な生活は、かならずしも精神的な健全さを意味しない。このところの自分は、完全な「過食」状態に陥っているといえよう。アラームで目を覚まして、音楽を再生して、意識が浮上してきたところで本を読む。起き出したら早々に書斎にこもって、語学の勉強をして、仕事をして、昼食がてらドラマを見て、また仕事をして、夕食をつくって食べて、ドラマを見て、シャワーを浴びて、仕事をして、ドラマを見て、本を読んで、眠くなったら寝る。生活と労働と睡眠以外の時間のすべて、日記もろくにつけないで、とにかく知識と娯楽をひたすら詰め込んでいる。好きでやっていることには違いないが、苦しい、という声がする。だがこれをやめたら待っているのは暗闇である。だから食べ続けることをやめられない。ただしく現実逃避だ。瓦解してゆく社会を直視することの恐怖に、資本主義に感化され他者を生産性で評価し、評価されることに愉悦をおぼえ、他者を自分より上だとか下だとか切り捨てる醜い存在へと変容していく自分を直視することの恐怖に、そうして必然的に失った相手の残した胸の穴を直視することの恐怖に、負け続けている。傷口がぐずぐずに膿んでいる気がするけれど、そこに手を突っ込んで膿を掻き出す勇気が持てない。書籍で、映像で、他者の言葉を求め続けるのは、何かに没頭している間は、自分の愚かさ、醜悪さを忘れていられるからだ。そこに向き合わずにいることの免罪符に、他人の生み出すものをつかっている。同時に、自分の知らないことがまだあるなら、まだ何者かになれるかもしれないという希望を持っていられるからでもある。でも実際のところ、もう自分は何者にもなれやしない、資本を生み出す機械に成り下がったのだ。

もう何も書けない。それは時間的な余裕の問題ではない。書くことは私にとって生きることで、他者との差異をみとめたうえで相手を理解するための手段だった。祈りだった。希望だった。言葉にすることで分かり合えると思ってきたから、自分ひとりの世界にとどめておくことができずにインターネットに放流させ続けてきた。誰かがわかってくれるものだと思ってきたし、わかってもらえたと思ったこともあった。その瞬間は真実だったこともあったのかもしれないけど、たぶん、無理なんだな。私は私の人生を生きることしかできない。他の誰の苦しみも喜びも、私には関係ないものだとしか思えない。すっげー絶望。フェミニストでいることもできないかもしれないなあ、と電子の海で肩書に名乗っているfeministの言葉を毎日見つめて思う。その空虚さが苦しい。恨み言しか書けない。それでもまだ一人になりたくないからこうしてまた海に流している。

※読む人が読んだらわかるので書くけど、この惨状の誘因はとある親密さを喪失したことで、でもそれはほんとうにただのきっかけに過ぎない。親密だったと思っていた。それまで疑いたくない。その人はぜったいに悪くないし、今でも好きだし、信頼している。私が悪かったのかもしれないけど、何が悪かったのかもわからないのに自分が悪かったと開き直ることもしたくない(これは自分が悪くないと思っているからではなくて、「どうせ悪いのは私ですよ」みたいな思考停止をすることはかえって不誠実だと思うから。私が悪かったのかもしれない、で留まることは、正直ものすごくしんどいけど、考え続けないといけないことだと思ったから。まだ深く向き合うことはできていないけど)。ずっと私の中で進行していたものが表面化して、それに目を向ける最後の一押しだったというだけの話。ただ、人付き合いがまともにできるようになった気がしていたのが錯覚だったっぽいというところには、わりとまあ、打ちのめされている。