『美しい彼』鑑賞後記

ツイッターのフォロイーが、「BLが好きな人に観てほしい」と薦めていたのを、自分に向けられた言葉だと都合よく思い込むことにして観た作品(あとからそれがあながち思い込みでなかったことがわかってとても嬉しかった)。1話20分ちょっとで全6話の短いドラマだが、これはどちらかというと映画館で一息に見たい作品だったなと思う。こういう恋情におぼえはあるけれど、もうとっくに炎は絶えて、灰のように黒い執着がくすぶっているだけの自分が、この先同じようなものを味わうことはないだろう、とまぶしく観ていた。陳情令で負った傷が癒えないうちに浴びるにしてはやや劇薬がすぎたけれど、その状態だからこそ観て良かったとも思った。これもやっぱり、言葉に頼らずに関係を築くふたりの物語だったからだ。この物語に描かれている感情はすっかり遠いものになってしまって共感できるものではなかったけれど、それでも痛みは生々しくて、初見のときは枯れ果てるほどに泣いた。一時は創作の中の人間を自分に引きつけてばかりいたけれど、自分と全然違う物語のなかにある痛みをちゃんと痛みとして認識できるようになったのは、きっと良いことだろう。

ものすごく素敵な作品だと思うし、私と近い感覚でボーイズラブを好む人にはきっと何かしら響くものがあるだろうと思うので、ぜひとも観てほしくてこれを書いているけれど、ひとつだけ。アウティングの描写があるので、つらい経験がある人は気をつけてほしいです。カミングアウトするもしないも、すべて本人の意思で決められるべきことで、悪意があろうとなかろうと、いまだ同性愛が異性愛と同じ扱いを受けることのできないこの不均衡な社会では、アウティングはぜったいにゆるされない行為だ。これが作中で明確に悪いものとして扱われなかったことは、とても残念。ボーイズラブと同性愛が重なりこそすれどまったく同一のものとして扱われないという慣習のだめなところが、この作品にも出ているなという感じ。

平良も清居も、形は違えど透明な存在だった。自分の存在をたしかめるかのように、誰かの肌に爪痕を残すことを望むあまりに、誰かを傷つけるための言葉ばかり選んでいたような清居の辛辣さが、やがて本音を隠すためのものになって、最後にはそれすら剥がれ落ちていく。それはそのまま、清居という人が、人間として存在できるようになってゆく過程である。彼はたしかに初めから美しいのだが、そうして虚勢と諦念が剥がれ落ちた合間から徐々に覗きはじめる、彼自身が放つ光の美しさ(それはどちらかといえば弱さに由来するものである)も、私たちは目撃することになる。その片鱗が最初に見えるのは2話で、平良とふたりで学校で水遊びをするときの清居は、笑顔がきらきらしているなんて生易しいものではなかった。美しさに焼き尽くされる、と恐怖すらおぼえるくらい。

最後まで見てはじめて、平良と清居の関係が動くのは、いつだって清居からだったことに気がついた。独りよりはマシという理由だけで、取り巻かれたり煙たがられたりと、流れに任せてたゆたっているだけだった清居が、平良との関係だけは変えようとみずから手をのばしていたという事実に気がついたとき、思わず呻いてしまった。

だからこそ、平良の独白で「俺が清居に影響を受けることはあっても、俺が彼に影響を及ぼすことはない」という言葉は、画面のこちら側にいる人間にはどうしようもなくもどかしい。だけど、あの状況でそうなるしかないというのもわかる。なんというか、「脚本がいい」ってこういうことを言うのか、というのを、理屈ではなく感覚で理解させてくれたのがこの物語かもしれない。

あと、物語の中の人物が話す言葉というのは、どうしても鑑賞者に向けて説明的になりやすいのだが、このドラマではそれがあまり気にならなかった。人間どうしの実際の会話が、かなり文脈に頼っていて、必要な言葉を省略して進むものだというのは、会議の議事録をとっていたりするとよくわかる。指示語だらけで、そのままでは後から読み返したときにほとんど意味が通らないから、文字におこすときには、それを補わなくてはならないのだ。私は脚本を書いたことがないのでこれは推測にすぎないけれど、台本に載っている台詞も、文字に起こされた言葉という意味では補われた言葉になりやすいのだろうと思う。この脚本の良さは、説明が必要なところをぜんぶ本人たちの独白として語らせるところだと思う。だから、演技の中での不要な言葉が減る。共感できないと言いながらも私が生々しさを感じているのは、きっとそういうところに起因する。

それと、言葉の担う役割がすくないと感じるのも、この作品の好きなところ。というより、陳情令とあわせて、言葉に依存していたことをようやく自覚した今の自分に刺さるものだった。陳情令の藍湛の寡黙さも、ある意味では似ていて、そういう曖昧さがボーイズラブの世界と親和性が高いこともあるのだろう。ふたりにしかわからないもの、言葉の外にたしかに存在するものを象徴するのが、ふたりがそれぞれの独白で言う「清居/アイツとの関係に、ちょうどいい名前はない。」という言葉だ。ほかにも、4話で清居が平良と再会したときに、「ストーカー」「キモい」と嘲るように辛辣な言葉を平良に浴びせる場面も印象的だった。何も知らない人からしたらぎょっとする呼びかけで、実際平良の隣にいた小山は顔をこわばらせていたわけだが(このときの高野さんの演技がたまらなく好き)、平良にとっては「俺の中におまえがまだいる、忘れていない」という意味にほかならない。言葉にしない、できない、でもたしかにそこにある。そういうものを表現するには、小説よりも映像のほうがずっと雄弁だ。凪良ゆうの原作小説も気になるけれど、この作品については映像が映像であることの意味がありすぎて、今ひとつ読む気持ちになれないでいる。

映像や演劇といった視覚的な作品にふれるとき、いつも考えるのが脚本や演出の強制力のことだ。言葉だけで成立し、作中の世界の具体的な肉付けが聴き手/読み手の想像力に委ねられるボイスドラマや小説と違って、視覚的な情報が直接与えられる映像や演劇作品は、「この世界ではそういうことになっている」という、鑑賞者を作中の前提に合意したことにして巻き込んでいく強引さがある。「彼は美しかった」と平良が言うとき、鑑賞者が清居のことを美しく思おうと思うまいと、清居は美しい人として扱われるほかなくなるということだ。その作中の前提と鑑賞者の感覚の齟齬が大きいほど、鑑賞体験にはフラストレーションがともなうし、だから視覚的な作品ではキャスティングや衣装といった、その前提をほんものにするための説得力が求められる。その点でこの作品がすごいのは、清居を演じる八木勇征さんが、ほんとうに文句なしに美しいことである。圧倒的な説得力。その顔立ちだけでなく、演技も良いところがまたすごい。演技の良し悪しについて語れるほど自分がわかっているとは思えないけど、演技だというのを観ていて忘れそうになる場面がいくつもあった。私が言葉を尽くすより、観てもらったほうが話が早いので、これ以上は語らないけど。

平良と清居の不器用なひたむきさにも胸を打たれたけれど、何よりも私をこの作品に縫い付けたのは、小山という、平良に恋をする大学の同級生である。演じているのは高野洸さん。高野さんは私のなかでヒプノシスマイクの舞台で山田一郎をやっている、というくらいの知識しかなかったのだが、よく知らないなりに、まじめで責任感が強そうな人柄に好感を持ってもいた(ヒプステの出演俳優でSNSをフォローしたのは、滝澤さんを除いたら高野さんと世古口さんだけである)。平良に「小山は言葉にも表情にも裏表というものがない」といわしめる率直さも、人懐こそうな笑顔も、高野さんでしかありえなかった。なんだろう、うまくいえないけど、演技もものっすごく好きだった。実直を地でいくような、優しさに満ちた人。平良が清居にぶつけられる辛辣な言葉に、かわりに傷ついたような顔をする人。交際相手として清居と小山を並べたら、百人が百人、小山がいいと言うに決まっているし、平良自身もそのことはわかっている。それでも平良に選ばれないのが小山という男だ。

私は小山と同じような経験をしたわけでもないし、小山にまるきり共感できるわけでもない。それでも彼の痛さはいやというほど流れ込んできて、感情に翻弄されてほんとうにどうにかなりそうだった。どうにかしてこっちを振り向いてほしいと必死になればなるほど、相手の瞳に自分が写っていないことの虚しさが際立っていく。どうしてこんなにいい人を、と思うけれど、でも恋というのがそういう理屈ではないことも、やっぱりわかる。

私自身が人に写真を撮られるのを苦手とするからよけいにそう思うのかもしれないが、写真に撮られるって、信頼がないとできないことだと思っている。撮られる自分は、ふだんの自分とはまったく別の存在になる。慣れてくればそこの行き来は苦なくできるようになるだろうし、人によってはそれを当たり前にできるのかもしれない。でも、すくなくとも、ずっとある種の透明人間であり続けてきた清居にとって、それはけっして簡単なことではなかったのではないか、と想像する。だからこそ、彼が平良のレンズを覗けること、撮られても良い顔を見せられることは、言葉ではない部分で、彼が平良にひらかれていたことを意味する、そう解釈した。そしてこれは、平良が最後まで小山のレンズをまっすぐ見ることがなかったのと、すごく対照的だ。単なる性格の違いというだけでは終われない、関係の違い。

小山に対して憐れみをおぼえるなんてことは絶対にしたくなくて、でも幸せになって欲しいと願わずにはいられない。私は小山ではないけど、たぶん、小山もまた、言葉と理性を信じすぎた人だったんだろうとは思う。どうして俺じゃだめなんだ、という問い掛けから、いつか彼が自由になれますように。