月光に裂かれたい

げっそりとしている。しばらくぶりに、目がまわるほど忙しい時期だ。マルチタスクがてんで苦手なこの私が、大小あわせて七つほどの仕事を並行して進めている。タスクがさばききれていなくて首はしまっているが、この状況で、しかも冬だというのに調子を崩さずにいられているだけでも、じゅうぶん自分を褒めていいだろうと思う。体力はとっくに尽きているのだが、きちんとケアしてやれていなかった感情が消化不良を起こしているのをどうにかしないとならない。これを休日に持ち越したくはない。

仕事の大きな節目を二週間後にひかえた今になって、大きな問題が立て続けに噴出している。そのほとんどが意思疎通の齟齬によるものだ。みんな他人の認識を適当に信じすぎだよと思う。こちらの言うことは思うとおりに伝わらないという前提のうえに成り立つのがコミュニケーションでしょう。円滑な意思疎通に必要なのは信用でも信頼でもなく不信。もっとちゃんと話せ。会話をしろ。「まあたぶん大丈夫だろう」で終わらせるな。

いろんな人のあいだで板挟みになっている。思惑がそれぞれにあって、そのどれもが間違っているわけではないのに、うまくかみあっていなくて、そのあいだで奔走している。私は、きっと多くの人よりも他者の発言のうしろにある文脈を読むことがうまい。日日通訳、なんて茶化すこともあるけれど、事実、他者と他者の意思疎通の失敗によって発生した齟齬をただすことにかなりの時間を割いている。生産性という言葉はきらいだが、もうすこし意味のある行為をしたという実感はほしい。言葉が届く範囲というのは、思っているよりもずっとずっとせまい。みんな、自分にわかる表現をつかって伝えた気になって、わかってくれない相手に対して、私に文句を言う。どういうつもりで言ったかなんて、言葉を舌先/指先にのせた瞬間から消失するのに。相手に伝わることがすべてで、意図したとおりに伝わらなかったのだとすればそれは方法を誤ったということで、それなら伝わるようにやり直さなくちゃいけないのに、それをわかっていない人間が多すぎる。コミュニケーションの技術そのものを売りにするこの仕事ににおいて、私の能力はたしかに強みだと自負しているけれど、裏をかえせば緩衝材になりやすいということでもある。こういう定性的な技術というのは、フリーライドされやすいのだ。信頼されている、ということでもあるのだろうけれど、自らの八方美人っぷりをみとめて嫌気が差す。そういう、ちいさな消耗をくりかえしている。

去年の秋ごろの日記だが、今も感じることはあまり変わらない。消耗する度合いはこの頃よりも軽くなったとはいえ、ちらついて見える他者の不機嫌にあてられる。何が悪いって、そういう他者の不機嫌をまともに相手するのが面倒だからと、正論でねじ伏せようとする傾向が自分にあるというところだ。去年、話を聞いてくれないのだとさんざん不満を感じていた相手と同じことを、今の君は周囲に対してやっているかもね、という指摘を上司からもらって、そのとおりだと思っている。他人を信用しないことは仕事を効率的に進めるうえでは有効だけど、一緒にいる人を蔑ろにしたいわけではなかったはずなのに。正論を言うことが必ずしも正しいわけじゃない、とかつて口にしていた自分が、今はその言葉をぶつけられる側にいる。いちばんなりたくなかったはずの人間に、自分がなりつつあることが怖い。

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ぐったりしているあまり、連れに甘えている。溜まった洗濯物や、流しに積み重なる汚れた食器を見せるのが怖くない相手でいてくれることがほんとうにありがたい。夕食も用意できなかったので、ピザをとって『チェンソーマン』を一緒に観ながら食べた。一緒に食事をして、アニメを観て眠るだけの穏やかな生活のことは心底気に入っているけれど、どうしても感情ケアをしてもらう形になりがちなのが申し訳なくて嫌だと思う。朝起きたら、きれいに洗われた食器が水切りかごに山盛りになっていた。ふたりで外に遊びに出かけたのは七月が最後だと気がついて愕然としている。

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私がアイドルについて思う時、誰よりも先に思い浮かぶのはセブンティーンであり、あの十三人だ。この先どれだけ愛する人たちが増えてもそこが変わることはない。そして、その彼らと似た雰囲気を持つのはTRIGGERではなく、ステージのうえで太陽みたいに燦然と明るいIDOLiSH7のほうだと思う。それにもかかわらず、自分がTRIGGERというグループに惹かれることがずっと不思議だった。アニナナ3期17話は、その理由のすべてが詰まった回だった。私は斉藤壮馬さんのことを好きであるからこそ、彼が演じる九条天のことをどうしても好きになりたくないのだけど(アプリのホームを九条天に設定している時点で何の説得力もない発言である)、そういう御託を、この日の九条天はまるごとねじ伏せて踏みにじっていった。

ボクの見せるもので誰かが胸を震わせる瞬間がほしい/ボクの歌が、ボクの姿が、人の心の色を変えて笑顔にする瞬間がほしい/それさえあれば、ほかに何も要らない/ボクの体に詰まった経験に空虚さなんてない  指の先まで、ボクとファンが生んだ財産だ(九条天)

好きでいるアイドルが、こんなふうに思ってくれていたら、どんなに幸せなことだろう。アイドルを好きでいることは、幸福であればあるだけ苦しいものだ。化け物みたいにふくれあがる多数の好意に、ひとりの人間を晒し続けてしまうこと、そこに加担してしまうことの後ろめたさ。この天の言葉を免罪符にして開き直ることが良いとは思わないけれど、後ろめたく思うことも、アイドルに向き合う感情として真摯とはいえないのかもしれない。アイドリッシュセブンという作品は、初めからずっと、アイドルもまた意思を、思いを、欲望を持って動く人間なのだということを教え続けてくれる。彼らがやりたいからやっているのだという事実を、私はもっと信じていいのだ、とTRIGGERを見ていると思う。「俺たちはどこで歌ってもTRIGGERだ」ときっぱり言い切る龍之介も、「俺たちはTRIGGERに恋をした。その熱は、まだ冷めないままだ」という楽も、ほんとうに、ほんとうにかっこよくて胸がふるえる。ひだまりのような優しい光じゃなくて、冷たく澄んだ月光のような、冴え冴えとした鋭さに心臓を切り裂かれて死ねるなら本望だ。

あとは『BLEACH 千年血戦編』とか『少女革命ウテナ』とかを見ている。後者はずっと見てみたいと思いつつも、なんとなく「今じゃない」が続いていて遠ざけたままでいた。アンシーに好きだった人の面影を見て、いろいろと直視したくなかった感情を思いしらされてちょっぴり苦しいところもあるけれど、今で良かったと思う。