無痛のよしあし

今日も出勤。電車で漫画『私たちは無痛恋愛がしたい』の広告を見かける。話題作であることは知っているが、読んだことはなく内容も知らない。ただ、タイトルの「無痛」という言葉が気になって、しばらく考えていた。荒っぽい男たちの物語ばかり好んで触れているので、登場人物が物理的な痛みを負う場面にはたびたび出会う。そういうのを見たり読んだりしているといつも、私はこの人達が味わう痛みのほんの一部すら味わったことがないんだよな、と思う。痛みって多くの人にとってはものすごく遠い感覚ではないか。たとえば刀傷を負うこと、殴られたり蹴られたりすることは果たしてどれくらい痛いのだろう、と考えようとしてみてもうまく想像できない。もちろん、痛みを味わわなくてすむに越したことはない。それはもちろんのことだ。すこしそれるけど、先日実家で観ていたテレビ番組で、産院で妊婦の出産に密着している映像があって、麻酔をつかった無痛分娩は保険適用外で数十万円かかるのだと知って脱力してしまった。そういうのは心底ばかばかしい。お腹を痛めて産んだ子ならどうのとかいう信仰もさっさと滅びるべき。一緒に観ていた母が私の出産時を思い出して痛かったなあと言うので、父と私は何も言えずに苦笑いするしかなかった。痛みを経験しなくちゃいけないわけじゃないし、不条理によって痛み(これは物理的なものだけじゃなく、精神的なものも)を味わう人たちはすこしでも少ないほうがいい。それは前提として、無痛化されすぎた社会、痛みへの想像力の欠如っておおげさでなく戦争の土台になりうるものだと思うので、それが怖いなあといつも思う。

仕事は眠すぎて船をこいでいるうちに午後が終わる。

夜、美容院へ。前回切ってもらったときには、流行りのウルフカットをやってみたくて襟足は長めに残し気味にしていたのだが、あれはきちんとセットしないと決まらないたぐいの髪型だったうえ、パーマもかからない直毛の私はセットしたところですぐに形が崩れてしまう。向いていないことは早々に実感したので、ゆくゆくはもうすこしのばすつもりだけど、他の部分と長さを揃えるために襟足をばっさり切って、かなり短くした。昨夏にロングから思いきり短くしたのを悔いたり、またこのところは化粧に前より凝ったり、ネイルサロンに数年ぶり行ってみたくなっていたりもして、自分のジェンダー表現がいわゆる女性寄りになってきている自覚をしていたのだが、短くなった姿を見て安心したことに気がついて、おや?と思った。知人がパーソナルカラー診断とか骨格診断の言いなりになるよりも、自分の好きな装いをすることのほうがずっと素敵だという話をしていて、私もそのとおりだと思うのだけど、かといって私にはその「好きな装い」というものがいまだにわからない。どうなりたいのでしょう。みんな好きな服のことがわかるのすごいと思う。いつも羨ましい。いや、みんなもわかってないから診断が流行るのか。

連れが勤務先の同僚から福岡土産の明太子をもらって持って帰ってきてくれたので、それで明太子パスタを作った。あとは、蒸した里芋にたたいた梅干しと鰹節を和えたものと、白菜とベーコンと、古くなりかけた牛乳でミルクスープ。ミルクスープって素敵な食べ物だ。

早く寝るつもりだったのに、NHKの番組『魔改造の夜』がやっていて、けっきょく最後まで見てしまった。洗面所で化粧を落としているときに、ナレーターの「悪魔の、降臨です」という音声が聞こえて「『魔改造の夜』じゃん!」と叫んだら、リビングにいた連れによくわかるねと苦笑いされた。私と父はこの番組が好きで、録画しておいてもらったものを一緒に観るのが実家に戻ったときの恒例行事になっている。テーマこそ荒唐無稽ではあるけれど、取り組んでいる人たちの顔はいたって真剣で、頭をひねってアイディアを出し、試してみたものが失敗して悩んだり悔しがったりする。人間ってそういう瞬間にいちばん魂が輝いている気がする。

アイドルや俳優を追いかけるのも、こういう番組に惹かれるのも、根は同じだろう。私は一生懸命になれる体験を欲しているのだと思う。久保田さんを好きになったときに思ったけれど、何かに熱中する状態そのものに、私は慣れつつある。そうなったらもうそれは熱中ではないのである。誰かを好きになるとき、その誰かは唯一無二の未知でも、出会い方は既知なのだ。でも既知と退屈はかならずしも等号じゃないし、知っているものに出会いなおす体験のほうが、もしかすると今は良いのかもしれない。

夜連れと会話していて、私にある不満が提示された。言われたほうの私が些細なことと断じてしまうのも気が引けるけれど、それ自体はそこで完結する話で、ただ私が連れの気持ちをあまり日頃から考えることができていないんだなと思い知ることにもなった。関係継続への意志の希薄さは、転勤や受験による進学という別離の多い経歴によるところも大きいけど、決定打になったのは前の恋愛の破綻かもなあ。あれだけ心を砕いて対話をしようとしても無駄だったという手痛い経験は、なるようになればいいという諦観を私に植え付けた。連れもいつかは離れていくだろうと思っているし、事実、五年前に一度振られているし。でもそれって防御だし、この期に及んで傷つきたくないのか、私、とちょっと意外に思ったりもした。そう、こういう形で手にする無痛もたぶんあんまり望ましくない。