できる、する、しない

昨日、私の世界には自分しかいないと書いたことをすこし後悔している。ああいうふうに強く言い切ってしまうことは、ほんとうは私の世界にいてほしい人をわざわざ追い出す行為にほかならないからだ。なにも孤独にみずから浸りにいきたいわけじゃない。大事にしたい人として思い浮かぶ顔はいくつかあるし、その人たちに大事にしたいと思ってもらっている自覚もちゃんとある。そうじゃなくて、言いたかったのは、「それじゃあ、どうする?」を私の代わりに考えてくれる人はいないということだ。どんなに誰かと親密になれたとしても、私の生き方を決められるのは私しかいない。でも、もしかするとひとりで考えようとしすぎなのかもしれない。私がどういう生き方を選ぶかはけっして他者に無関係でも無影響でもないのだから。

そう考えると、やっぱり他者との対話を、誰かとわかり合えることを根本的に諦めてしまっているところを一番どうにかしないといけないんだろうなあと思う。かつての私にとって文章は誰かとつながっているための手段で、祈りだった。どこかに同じ痛みを抱える人がいると、自分の言葉を受け取ってくれる誰かがいると信じることができたから書いていられた。今はそういうのがないからずっと空虚だ。二次創作ができなくなったのも、私にとってはそれがキャラクターを理解するためのプロセスだったからで、私が人間に対する興味を、理解したいという熱を失ったせいなのかもと思う。

でも、すべてをさらけ出して、それでも相手が傍にいてくれるかどうかを試すような生き方ばかりしてきたことを思えば、自分について語ることが怖いと思えるようになったのは、悪い変化ではないのかもしれない。一方的に自分を相手に投げつけて反応を伺うような乱暴なものではなく、相手と関係を築くことを前提に自分の存在を考えられるようになった、と考えることもできるだろうから。

それはそれとして、人間はどうせわかり合えない、という強烈な諦念をどう手懐ければいいのかはわからない。孤独というよりは、単純にさみしいのかもしれない。これもけっきょくは昨日書いた、世界とのよりしろがほしいという感情と同じことだ。

一体どうしてこうなってしまったのかと考える時、前の恋愛の破綻がまず思いつくけれど、それはきっとこの諦念の構成要素のひとつにすぎない。言論空間でいろんな人がいろんなことで憤ったり悲しんだり失望したり断罪したり蔑んだり侮ったり攻撃したり開き直ったりしているのを日常的に目にする体験というのも、人間という生き物に対する失望を募らせる一端になったことは間違いない。私がツイッターから離れようと試みるのも、フェミニズムからなかば意識的に距離を置いているのも、これ以上人間に幻滅したくないからだ。

信頼という言葉が嫌な使われ方をするようになったと感じるようになってから、しばらく経つ。フェミニズムをはじめとして、反差別を志そうとする人々のあいだでは、「この人は信頼できる」「信頼できる作品」みたいな感じで、かなり頻繁に目にする表現だ。「この人/作品は私を傷つけない」という意味合いで使われていることが多い。本来この言葉が持つ、信頼する側とされる側の双方向的な文脈はここでは薄れ、相手のあり方によってのみ、信頼の可否が決まることになる。それは取りも直さず、相手が自分を傷つけた瞬間に、その信頼は一方的に破棄しうる類のものであるということだ。私もかつて使ったことがあるし、今でもたまに使ってしまうが、最近使うのをやめようとしているのは、それがけっきょく相手を自分の基準に適う存在かどうか品定めする暴力的な行為にすぎないと思うからだ。

個人がその人の基準をもとに経験する怒りや悲しみを軽視するつもりはないけれど、そういう基準の相違が対立の火種になって、それぞれが傷ついて関係が瓦解していくところを幾度も見ているうちに、「連帯」という言葉がめっきり空虚に見えるようになってしまった。本来、人と人が個人のままでつながることを意味していたはずのその言葉は、いつしか他者に同質性を期待することにすりかわったように思う。たとえばフェミニズムを信奉するならばかくあるべき、というのを各々が持っていて、そこから外れたものは信頼を喪失したとして容赦なく失望の対象となり、裏切り者として断罪される。今の自分が正しいだろうと思うものはあっても、それがほんとうに正しいかどうかなんてわからないのに、どうしてみんなそんなに簡単に他者に失望できるんだろう。私にはその強さが怖いし、気持ち悪い。

信頼「できる」ではなく信頼「する」というところに立たなくてはいけないのに、と頭では思うのだが、そういう私も今は信頼「しない」ことしかできていない。自分と他者とは相容れない別個の存在であると同時に、自分も、他者もたえず変動する生き物である。そういう前提に立つ個人主義というのは、ある意味では人間と人間の接点を断ち切っていく思想で、連帯を拒否するものだ。これが私の現在地。

他者に失望できるということは、他者に希望を持てるということと同義だ。その希望を受動的なもの(信頼「できる」)ではなく、能動的な形(信頼「する」)で持てた先に、他者に同質性を求めず、個人を重んじながら連帯することが実現されうる。ならば、やはり対話をしてゆくしかないのだ。相手が自分と違うことを相手を信頼しない理由にせず、相手が自分と同じことを相手を信頼する理由にもせず。私は、言葉をふたたび、独りよがりではなく誰かとかかわるための祈りにできるだろうか。