NTLive『かもめ』/映画『セッション』など

いずれも盛大にネタバレしています。

 

漫画『ダブル』と、先日上演されていた舞台版には、チェーホフの『三人姉妹』という戯曲が登場する。戯曲作家といえば名がすぐに挙がるくらいの存在であることは知っているものの、実際の作品はひとつも観たことがない。いずれは、と思いつつきっかけがなかったのだが、『ダブル』を観て、あらためて観てみたいという気持ちが高まっていたところだった。折しもつい先日映画館でナショナル・シアター・ライブの『かもめ』(ジェイミー・ロイド演出)を観に行っていた友人がいて、その人に「たぶん好きだと思う」と背中を押してもらって、むりやり有給をねじこんで先週観に行ってきた。

三方を壁に囲まれた空間に、椅子とキャストのみ。装飾性がかぎりなく廃された単純さ。舞台『ダブル』の転換なしの演出を観て、芝居は人間と言葉さえあれば成立するということを考えたのだが、その究極形ともいうべき演出だった。ものすごく、おもしろかった。

登場人物全員の矢印がすれ違い、錯綜し、誰もが孤独なまま、空虚さの漂う会話が繰り広げられる。軽妙さと物悲しさが同居する空気感がすごく好きだったのだけど、何より心を動かされたのは、各々の孤独の果てに、コンスタンチンとニーナがひとつの椅子を分け合って言葉を交わす場面で、そこだけはあたたかな血の通った会話になっていたところ。それが恋愛の文脈でのハッピーエンドに回収されないというところも含めて私好みだったし、希望だと思った。人とかかわるというのは、椅子を分け合うことなのかも、と考えながら観ていて、気がついたら泣いていた。最後の椅子の配置が羽を広げたかもめの形になっているのも粋だった。

 

夕方は映画『セッション』(原題:Whiplash)を観た。高校まで部活でビッグバンドをやっていたこともあり、大学生だった公開当時にも観てみたいと思った記憶はあるものの、観ずにいるうちに10年も経ってしまった。でも、あの頃に観なくて良かったかもしれない。

いっそ気持ちいいほどに胸くその悪い映画だったし、だから評価サイトの評点の高さや錚々たる受賞歴には意外な印象を持った。他人の感想にあまり興味がない(というよりノイズになるので見たくない)ので、その評判が映画のどこに起因するのかはわからない。ただ、非倫理的な、悪を悪として描いた作品が存在していいためには、鑑賞者がある程度「これは悪だね」という認識を共有していることが前提になると思っているので、この映画を絶賛する人たちに、それがどこまで共有されているのだろうと不安になった。

悪をありのままに描き出すという所業を褒めそやすのは、わからないではない。描写することではじめて目に見えるものはあるからだ。ただ、人間のそういう側面の「描写への」称賛と、人間のそういう側面への称賛は分けておかなくてはいけない。そしてそれは、人間性が欠けていることと芸術の価値とのあいだに相関を見出したがるきらいがある今の社会ではすごく難しいことだと思う。

連れは、この作品にかぎらずデイミアン・チャゼル監督作品が好きになれないと話していた。作品に通底する倫理の感覚が肌に合わないのだという。私はこの作品しか知らないけれど、たしかにあの結末だと、フレッチャーの指導法を否定できずに終わるのがかなり危ういなあと思った。JVCジャズフェスティバルで、ニーマンの知らない曲を演奏しようとして嫌がらせをするフレッチャーを牽制して、ニーマンは勝手にドラムソロを始める。渾身の演奏に、フレッチャーの表情から悪意がだんだんと消えて、それがニーマンへの称賛へと変化してゆくシーンは、観ている側に「ようやくフレッチャーを見返した、ニーマンはよくやった」というカタルシスをもたらす。だけど、それをもってこの映画をニーマンの復讐譚として見てはいけないと思う。

音大を辞め、ドラムからも離れたはずのニーマンがJVCフェスティバルでふたたび演奏することになるのは、ニーマンによる匿名でのハラスメント告発によって教壇から追われ、街のジャズバーで演奏していたフレッチャーを、偶然ニーマンが見かけて再会を果たしたのがきっかけだ。そのときの会話で、フレッチャーは「"Good Job"ほど有害な言葉はない」とニーマンに話す。現状を肯定することで、向上心を失わせてしまうから、というのがその理屈だ。

ニーマンが力を振り絞った長い長いソロをようやく終えたとき、フレッチャーの目元がクローズアップされるカットがある。口元は映らないものの、短く言葉を発しているのがうかがえるのだが、上述の再会時の会話をふまえて、おそらくフレッチャーはここで "Good Job" と言っていると私は解釈した。つまり、フレッチャーが認める側、ニーマンが認めてもらう側というこのふたりの関係は最後まで覆らない。どこまでいっても不健全で不均衡だ。それなのに、観客はどこかハッピーエンドめいたものを感じとってしまう、そういう作りになっていることが、すごく危うい。そうしてニーマンはフレッチャーも認めるレベルのドラマーになれました、めでたし、という構図が成立してしまう以上、フレッチャーの指導は正しかった、という結論になりかねない。それはだめでしょう。とはいえ、才能あふれる若者だったニーマンがフレッチャーに潰されて終わりました、パワハラはよくないですね!という話だったら、説教くささが敬遠されてここまで訴求力の高い作品になっていなかっただろうというのも、なんとなく想像がつく。こういう露悪的な作品の存在是非は難しいことだけど、描写することすなわち可視化することの意義をみとめたうえで、観た側が批判するところまでをセットにするのが落とし所かなと最近は考えている。

『セッション』という邦題もなんだかなあと思う。原題のWhiplashとは、ほとんど正反対の印象がある。あえてのミスリードを狙ったものだとしても、うまい邦題だとはとても思えない。ニーマンがフレッチャーのハラスメントの告発を勧められるシーンや、再会時にニーマンが「物事には限度があるのでは」とフレッチャーに尋ねるシーンなど、フレッチャーのあり方が悪として扱われる演出はなくはないけれど、何よりも「鞭で打つ」というおそろしい言葉がいちばん、フレッチャーに対して批判的な姿勢の見える部分だと思う。それをセッションというポジティブなニュアンスの言葉にしちゃうのは、うーん、なんだかなあ。

連れはこの作品が嫌いらしい。私は観ていろいろ考えをこねくり回すのが楽しいし、楽しければ嫌いではないと思ってしまうので、嫌いではないと思うけど、不愉快な作品だったことはたしかだ。でも、映画の評価ポイントというのは当然物語(脚本)にかぎったものではない。私がこれだけ物語に言及したくなるのは、ひとえにスクリーンの向こうに成立する世界が、演じられたものであることを忘れてしまうほどに説得力のあるものだったからで、その点ではたしかに、すごい作品だったのだと思う。

そうそう、せっかくの極音上映だったけど、音への感動は薄かった。まあ、そういう作品なので仕方ないんだけど、誰ひとりとして楽しそうに演奏していないから、つまらなく聴こえて。ジャズは感情の音楽だと教えられてきたし。でも抑圧された印象の演奏も、フレッチャーへの批判のいち表現として意図されたものだったりするのかなあ。

ところで、フレッチャーのやり方はたしかにまずいのだが、褒めることは現状を肯定すること、すなわち成長機会を奪うこと、という彼の考え方は、日常でも行き当たるテーマだなと思った。教職を志していた頃も、中堅社員として若手を育成する立場になった今も、どこまできつい思いをさせるべきか、そもそもさせるべきなのか、という匙加減には悩み続けている。だからこそ、自分もまたフレッチャーになりうるのだと思うと怖い。

夜は体調を崩した連れの家に行って、夕飯を作って、『ダークナイト』を見ていたら終電がなくなったのでそのまま泊まった。『ダークナイト』は一昨年あたりに『憂国のモリアーティ』のアニメを観ていた頃、たまたまホワイトリーのエピソードだけ一緒に観た連れが、この作品のオマージュであることを教えてくれたのだが、なるほどまさにという感じだった。物語を浴びまくった一日。