2023/6/12

病院の検査のために絶食をひかえる連れに合わせて7時に起きて、めずらしくしっかりと朝食を食べた。トースト、茹でたブロッコリー、ソーセージ、マッシュルームの入ったオムレツ。朝食をとる習慣はまったくなくなってしまったが、たまには悪くないかも。

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先週、自分の先延ばし癖が悪い結果に出てビジネスチャンスをひとつ落とした。小さな案件だったし、モチベーションはずっと低迷していて、だから積極的にとろうとしていたわけでもなかった。でも私がちゃんと動いていれば結果は違ったかもしれないと遠回しに客に言われて、自分が誰かを失望させたんだとはっきり思い知らされたのがきつかった。落ち込むほどではなかったけれど、これに慣れてしまったらだめだという危機感はある。私は使えない人間だと思われることを自分にゆるせない。6年目。言い逃れのしようもない、立派な中堅だ。管理職業務もすこしずつ任されるようになってきていて、もう物分かりの良さだけで期待をかけてもらえてかわいがられるような時期はとっくに抜けている。私だけがそこに追いつけていない。

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近い世代がばたばたと辞めていく。待遇や人間に満足しているから自分がそこに続こうとは思っていないけれど、組織は確実にぐらついている。焦燥感みたいなものはある。この先どうなっていくのだろう、という漠然とした不安だ。このままここに留まっていても良いのだろうか、という思いが彼らを転職に駆り立てているのだろうと察するのは難しくない。きみだけはやめないでね、と先輩たちから冗談交じりに言われて、やめる気ないですよと冗談交じりに返しながら、ほんとうに?と問う声が内側で大きくなっている。それを直視することが面倒なだけだ。せっかく意味のある仕事だと思えるようになってきたところだというのに。

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連れは今日から2週間不在だ。戻ってきたらあっという間に引っ越して、一緒に暮らすことになる。こんなに顔を合わせないのは、関係が終わらないかぎりたぶんもう最後だ。5年間のひとり暮らしが終わろうとしている。そう考えるとすこし惜しいような気もするし、ひとりでいる時間の充実感はほかの何によっても代替しえないから、最後のひとりを満喫してやろうと楽しみにする気持ちさえあった。だけど、いざそういう状況を与えられると、存外戸惑ってしまう。この数ヶ月、毎日顔を合わせていた相手が近くにいないのはおもしろくない。

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知らない人の日記を読むのが好きだった。自分の知らない生き方をしている人たちがいると知ることが、道ですれ違うおもしろくなさそうな人間たちのなかに、こんなにも心惹かれる文章を書く、私にとっての運命の人がまぎれているかもしれないと期待できるのが嬉しかった。でも、もう魔法の効力がきれてきた。魅力的な文章を書く人間、心を奪われるような光を放つ素敵な人間なんて腐るほどいることを、私はもう知ってしまった。おもしろい物語が星の数ほど存在することも知ってしまった。新しく出会うひとりひとり、ひとつひとつはそれぞれ異なっていても、それらから想起される感情のバリエーションなんて、だいたいぜんぶ経験している。そのどれもが、私にとってのたったひとつのきらめきになってはくれない。世界が全部想像の範疇におさまっていく。心をかっさらわれるような何かは、まるっきり別の自分に生まれ変わらせてくれるような出会いはたぶんこの先にない。つまらなくてどうしようもない。みんなうるさくてつまんない。

この感覚を持て余すようになったのがいつだか思い出せないが、もともと他人への興味が薄かったのが、輪をかけてひどくなっている。私をおもしろがらせてくれない人間は私にとって価値はない、と言っているにひとしいので、ひどい傲慢だと自分でも思う。でも、仕方ないんだよなあ。30を間近にむかえて、自分に残された時間がそう多くないことの恐怖は募るいっぽうだ。自分でくだらないと思っているものにかける時間なんかあるはずはないのである。

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2年ほど前、友人と文フリに行ったとき、こんなにも多くの人間が自分の言葉を読まれたいと思ってこの場にいるんだという事実に気持ち悪くなったことを思い出す。個々のスペースに近づいて、手にとってサンプルを読んでみればおもしろいものはたくさんあったし、私の食指が動かないものも、ほかの誰かにとってはひとつの星になったことだろう。ひとつひとつの作品には創作者の魂がつまっている。でも、個を認識できないところから俯瞰したとき、あの空間には、一様に「自分の言葉を読んでほしい」という欲求を持った生き物がひしめきあっているのだと思うと、ぞっとしてしまった。何者かになりたい、誰かにとっての特別でいたいという欲望の濃度が息苦しかった。今にして思えば、私自身もまた同じように何者かになりたがる存在でありながら、そういう欲望をいだいた時点でその欲望の集合体を構成する要素のひとつに取り込まれてしまうことのままならなさが恐ろしかったのだろう。誰もが特別になろうとして、特別になる手段もどんどん普及して、結果として特別の価値は下がった。もう世界に新しく特別なものが生まれることはないのかもしれない、と最近は思う。時間が不可逆である以上、未来は過去のバリエーションでしかない。せめてもの救いは、過去の自分にとって特別に感じられた人やものが未だに私のなかで燦然とまぶしさを失わずにいてくれることだ。新しいものに目移りしてそのたびにどこか満たされない感覚を持て余すよりは、そういうものを、もっと味わい直してみてもいいのかもしれない、と思う。自分にとって価値あるものが何であるかを考えることは、どう生きるかを考えることに等しい。

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このあいだ出張で中国に行って、空いた時間で街をひとりで散策したとき、自分に足りていなかったのはこれだと思った。理解できない言語と知らない景色のなかでたったひとりで存在しているとき、私を満たすのは恐怖だ。恐怖は未知のあるところに生まれる。未知はおもしろい。言葉にも人間にも失望しているけど、世界にはまだおもしろいと思える余地が残されている。感染症の流行で変わり映えのない日々に曝され続けていたから、久しぶりにそのことを思い出せて嬉しかった。