2023/6/15

まったく眠れなくて午前5時過ぎまで起きて、もうこのまま起きていようと思ったのにうっかり寝落ちて、目を覚ましたら正午をまわっていた。裁量労働なので就業規則上悪いことをしているわけでもないのだが、このところこういう気の緩みが続いていて、自己嫌悪が募っていく。仕事が立て込んでいないだけに、適度な緊張感が欠けていて、袋の底に空いた穴からぜんぶ抜け出ていくみたいなおぼつかなさが続いている。自分の足元が不安定で嫌だ。

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読みたい本も、漫画も、見たい映像もたくさんある。でも、それは今ではない。じゃあいつになったら読めるんだろう。ただ目でなぞって終わりにしたくないし、話を見失ったまま先に進みたくないから、いくらか読み進めて中断してしまったものは毎回最初から読み返す羽目になる。でもまた途中で力が尽きてしまって、結局同じところばかり読むしかない。いっこうに先に進めない。いつまでこんなことやるんだろう。

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ツイッターのインストールとアンイストールをかなり短いスパンで繰り返している。膨大な量の他人の言葉に曝され続けることに耐えられない。ひとたび文字を目にしたら最後、それを理解して、それによって自分の中に想起されるなんらかの反応を吟味して推敲するところまで逃れられない。流れてくる言葉にいちいちそんなことをやってるんだから、しんどさはすぐに飽和する。それでもあの場所から離れられなくて、数時間後には舞い戻ってしまう。好きなひとたちの言葉を見逃したくないし、頭のなかに思考が溜まって澱むのも耐えられない。みんなうるさいと思いながら、不毛だとわかっていながら、それでもその濁流に浸かりにいってしまう。時間も気力も奪われて、それでも惨めな思いをしにいっちゃうのってなんなんだろう。

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今にはじまったことではないけれど、いろんな人からの連絡をあいかわらず返していない。それで終わる関係ならそれまでで、自分にとってその人がそれほど大事じゃないってことなんだろうと切り捨ててしまえるのはたぶん冷淡さなんだろう。手帳をもたない高校の頃の同級生が、忘れるような予定なら僕にとって大事じゃないってことだから、とあっけらかんと笑っていたのをよくおぼえている。社会で人とかかわっていく以上、そこまでぱっきりと割り切るのはなかなかむずかしいけれど、いまでも大きく影響を受けている考え方だ。今続いている友人関係はどれも、日頃のやりとりはほぼ会う約束をとりつけるだけで、会ったときにまとめて数カ月分の会話をするというスタイルに落ち着いている。文面でのコミュニケーションは、推敲が可能だから言葉を吟味できる点は気に入っているけれど、その分だけ神経をつかうから疲れる。ハイペースのチャットだとなおのことそういう吟味な不十分なまま送信して、あとあと悔いることも多い。そんな負荷の高いコミュニケーション、仕事だけでおなかいっぱい。

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先日遊んだ友人が、恋人と一緒にプロフィール帳を埋めて遊んだら楽しかったと話していたのがおもしろそうだなと思って、連れに付き合わせてやってみた。すこしまえにインターネットで配布されて流行った、平成の懐かしさを感じさせるテンプレートである。「かわいい」「かっこいい」といったキーワードにあてはまる人を書くという、「連想ゲーム」という欄があるのだが、それを見てふと懐かしい記憶を思い出した。小学校の頃、塾で両思いだった男の子がほぼ全部の枠に「おれ」と書いて、「かわいい」の枠だけ私の名字を力強く書いてくれていたというもの。当時、学校での私はクラスで林立する仲良しグループのどこにもはっきり属していない、孤立しているわけではないけれど誰も私のことを真剣にあつかわない、所在のない立ち位置だった。頭の良さだけが取り柄だったから、私のことをかわいいと思ってくれる人がいるんだ!というのはけっこう大きな出来事だったような気がする。自分から打算的なアプローチをして恋愛関係に持ち込むことの多かった私のこれまでのなかで、数少ない、相手から好意を向けられた経験でもある。彼の方からラブレターをくれたのだったが、こちらがたじろいでしまうほどにまっすぐに「(私の名字)が好きです」と書いてあったことを今でもまぶしく思い出す。

連れとは交際していない期間も含めれば8年近い付き合いだし、そこまで新しい情報があったわけでもないのだが、懐かしさもあいまってすごく楽しかった。

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管理会社に同居の手続きを進めてもらい、親にも報告して、連れの分の合鍵も受け取った。冷蔵庫も大きいものに買い替えたいし、ベッドもさすがにシングルじゃ厳しいよねとか話しているので、今月支給されたボーナスは、ほとんどふたりでの生活をはじめるのに費やすことになりそうだ。そうやってお金のことを考えていると、だんだんとほんとうに住むんだなあという感慨が湧いてくる。家の更新が近いけどどうする?じゃあ一緒に住むか、みたいな感じでするりと決まったけれど、婚姻も出産も予定しない私たちには、今考えうるかぎりでもっとも大きなライフイベントのひとつを迎えようとしているのでは、とふと思いいたって緊張してきた。

24で実家を出て、親から離れて初めて、自分の人生が始まったんだと思った。それが終わるということは、ここから別の人生が始まるということなんじゃないか。まほやくのちょうどこのあいだ読んだエピソードで、ネロは、誰かと一緒にいるというのは、魂の形のありかたを変えることだと言っていた。自分のこういう変化を目の当たりにすると、ほんとうにそうだなと思う。交際相手にかぎらず、他者とかかわることはすべてそうだけど、距離が近い分変形は劇的だし、怖いなと思う。作り変えられている。不愉快な恐怖ではない。

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自分を奮い立たせることを言い訳に、レイトショーの通常上映でムビナナを観た。4回目だ。連れと一緒に初めて観た時からつい目で追いかけてはいたものの、なんだか気になるなあと思うくらいだった人に、とうとう抗いようもなくまっさかさまに落ちた。もともとゲームをプレイしていたときから彼のことを気に入っている自覚はあったけれど、ほかにも好きな子はいたから、こんなにも圧倒的に吹き飛ばされることになるとは思っていなかった。ライブのときに普段のひいきとは違う人の魅力に目を奪われるのはよくあることで、だから今回もそういう一過性のものだろうと、昨日まではそう思っていたのに。

それまでに観ていた3回で、回を重ねるごとに曲中のパフォーマンスで自分が彼から目を離せなくなりつつあることは自覚していた。この日、なおのこと彼を観よう、と決意していたのは、落ちていく瞬間の楽しさを知っているからだ。そうやって自分の好きを能動的に強化して、塗り固めて積み重ねて、ゆるやかに好きになっていくのだと、作中の好きな人を問われたときに挙げる名前がひとつ増えるような、そういうつもりでいた。

16人が全員でファンサをするシーンで、ステージ上のスクリーンに16分割された中から彼を見つけた瞬間、脳神経が焼ききれた気がした。火花が散ったみたいな感覚。しばらく心臓がばくばくしていて、そのあとのMCの内容はあんまり頭に入ってこなかった。さらにそのあとアンコールでばっちりウィンクを決めたところを見て、心臓が灼かれたと思った。

こんなに、血液が沸騰するみたいなのって、セブンティーンを、ジュンくんを好きになって間もなかった頃の、いちばんアイドルを好きでいることが楽しくてたまらなかった時以来の感覚だ。それ以降もいろんな人を好きになってきたけど、それってぜんぶ、感情をぜんぶ明け渡しておぼれるような、息もつけない高揚感をどうしてももう一度味わいたかったからで、だけどそのどれもがジュンくんには及ばなかった。好きになる瞬間がどういうものかを知ってしまったが最後、それはもう私にとって新しさを失ってしまったのだから、当然といえば当然だった。

だから、自分の感情のゲージに、そこまで可動域がまだあったことに驚いた。こんな感情をまだ味わうことができたんだ、私。とどめの一撃をくらったので、たぶんしばらく映画館に通いつめることになる。