中和する分子でありたい

体は疲れていたから眠ろうと思えばできただろうが、どうにも寝たい気分になれずに深夜まで起きていた日、数日前から話題になっていた泥ノ田犬彦『君と宇宙を歩くために』をようやく読んだ。ずっと読みたいと思いながら、私の大事な人たちが登場人物たちにみずからを重ねて心を動かされている様子を見るにつけ、私が読んでいいのだろうかというためらいは強くなるいっぽうだった。私は、この漫画で描かれるキャラクターたちのように「人と同じように生活するのに工夫が必要」という苦しさをかかえる当事者、ではない。そういう私が読んでありがたがってしまったら、それは当事者のための物語としてではなく、マジョリティへの啓蒙作品としての称賛にどうしてもなってしまうような気がして傲慢だと思った、というのもある。でも何よりも、自分がマジョリティ側なんだというのを確認するのが怖かった。周囲の言及ぶりから見て、発達障害をかかえる人々が遭遇する差別について描かれていることは想像ができたし、つまり自分をこの漫画に登場する人物になぞらえるなら、差別をする側の人間になってしまうだろうことが怖かった。

この漫画を感動したともてはやす人の多くが、現実には「同じ給料もらってほしくねーよな」って言う側じゃんね、と友人は言っていた。痛みをもって、その言葉を忘れまいと胸に刻みつけている。そのとおりだ。事実、私は同僚に対してそう考えたことが何度もある。なんでこっちばっかり尻拭いしなきゃいけないんだよ、って思うことなんか、しょっちゅうある。

そういう私の攻撃的な、能力主義に毒された差別的な一面を正当化したいわけじゃない。ただ、これは個人の話ではなく、構造の話だと思う。人と同じようにできなかったり、苦手なことがある人をカバーするだけの余力がないことの問題だ。社会の余力の問題だ。人と同じことをするのが苦手な人が、なぜできなかったのかを考え、同じようにできるためにはどうすればいいだろうかと方法を見直す余地(作中ではレジ打ちのマニュアルを作成するという解決方法が提示されていた)や、その人がほかにできる役割はなんだろうかと探す余地や、その人がやってみてできなかった部分は他の人がカバーすればいいよねと思える、そういう余地が社会になさすぎる。そういう窮屈さをもたらしたのは、効率化を至上とする資本主義社会にほかならない。

同じ時間をかけて、同じ給料を払うなら、より多く、より正確に仕事をできて、すなわちよりたくさん稼げる人の方が良いに決まっている。でもそれは目先の、短期的な効果の話だ。人間を資本を生み出すための手段に貶めたくはないし、その価値観を重視して行き着くところは、おおげさではなく、社会の崩壊だと私は思う。「できる人」と「できない人」の二極化が進む。できる人の負担ばかりがあがって対立構造は深まるし、できない人には何も仕事がまわされずに格差が拡大する。そんなのは、誰のための社会にもならない。

社会の本質は競争などではない。「できる人」だけが生き残る社会など望むべきではない。それは直球の優生思想で、突き詰めて純化したらナチスドイツとか植松聖とかになるんだし、できる人だけが生き残ったところでその中でできる人とできない人がまた分けられるだけだし。みんなで生きられる社会を考えないといけない。社会の本質とは、役割分担だ。「できる人」が10やるのではなく、それを9と1、8と2にできるようにしていけばいいし、その1や2を3や4や5にするために人間は学ぶんでしょう。

どうして人と同じようにできないのだろう、と苦しむ人たちにとって、診断名が降りるというのは、すくなくとも人間を「できる人」と「できない人」で分類する今の社会においてはまだ意義の大きい行為だ。できない理由を自分にも、他者にも証明できるから。でも本来、障害を障害たらしめているのは社会だ。診断名をつけることで「正常」と「異常」、「できる人」と「できない人」という区分はなくならないどころか、その二項対立を加速させることにもなるのではないか、ということを、教職を志していた頃からずっともどかしく思ってきた。区別と差別は違う、とは差別主義者の常套句だが、区別することから差別ははじまるのだから、障害を無効化する社会のあり方を考えるべきだと思う。そしてそれは、障害を障害たらしめている社会をつくったマジョリティの義務だろうとも。

ちょうど今読み始めた本に、「社会とは行為、思考、感覚様式であり、個人への強制力を持つもの」というデュルケームによる「社会」の定義が引用されていて、とても腑に落ちた。「同じ給料もらってほしくねーよな」とか「なんでこっちばっかり尻拭いを」とかっていう、誰もがあたりまえに感じがちな "無能" へのいらだちが、社会から強制されたものだと認識できるかどうかで、この漫画の主人公たちが生きやすくなる社会をつくるためのアプローチは、全然変わってくると思う。これはけっして、ぜんぶ社会が悪くて私は悪くない、という話ではない。できる人とできない人を区分する現在の社会が様式であり(マジョリティの)傾向だというなら、そこに属する個人の意識や行動を変えることでマジョリティの割合を変えてその傾向を中和することができるはずだし、それしかできない。必要なのは、「できる人」と「できない人」という区分ではなく、「できること」と「できないこと」という視点への転換だろう。中和する分子でありたい。