Being at Home with Claude ~クロードと一緒に 感想

※ネタバレあり

 

 

 

家事をそこそこに終わらせ、昨日も会った友人と横浜で落ち合う。快晴で街は混み合っている。ハーフトップにハイウエストのワイドパンツ、柄物のシアーのロングシャツを重ねてめちゃくちゃ夏!と嬉しくなった。私は夏が好き。ハイウエストのパンツだと、せっかく肌を見せてもへそ周りのタトゥーが見えないのが惜しいけど。

横浜赤レンガ倉庫で『Being at Home with Claud ~クロードと一緒に』を観た。上演を知ったときから気になっていて、井澤さんが出演していることに背中を押されたかたちで観に行くことにした。昨日に引き続いて、ひいきの俳優がとくに出ているわけではない(勝吾さんも井澤さんも好きな俳優ではあるけど、ひいきではない。不思議なことに)舞台を観て、純粋に物語を楽しむにはこっちのほうがいいなあと、あたりまえすぎることを今さら思った。好きな人がいると、意図せずとも視線も意識もそちらにひっぱられてしまうから(気づけば好きな人ばかり目で追ってしまう現象を、友人は「全自動推しチッケムになる」と表現していた)。演者を楽しむのも舞台の楽しみ方のひとつであることに違いはないけれど、それはやはりどちらかといえばアイドル的な楽しみ方であって、作品を楽しんでいるのとはすこし違う気もする。

率直に言って、味わいきれなかった。間違いなく観てよかったし、上演の情報を知ったときに自分が好きそうだと感じた嗅覚は間違っていなかったけれど、悔しさのほうが大きい。でもこれは反省のしようがある悔しさだ。

今思うと我ながらちょっと信じがたい気もするのだけど、刑事がイヴに対してぶつける苛立ちに、イヴのなりわい、彼の生き方すなわち彼そのものに対する蔑みが含まれることに気づいたのが、けっこう中盤になってからだった。なんだろう、単純に供述がとれない、仕事が終わらないことに苛ついているように見えていたんだよな……とくに前半は佇まいやふるまい、表情からその人がどういう人かを読み取る方に意識を割いていたから、台詞をぼんやりとしか聞けていなかった気がする。聴いてはいるんだけど、概念で状況をざっくりとらえる方が先に来るから、ひとつひとつの単語、文章に紐づく感情にまで気が回らない。威圧的で怒っている、という粗い粒度の情報の中には、差別の匂いを嗅ぎ取れなかった。私って人間を読み取るときにノンバーバルな要素が先行するんだ、と自分で新しい自分を知ったような気持ちになったけど、そういえば文字や視覚情報の認識にくらべて聴覚情報の処理がめちゃくちゃ苦手だという自覚は以前からあった。これって言葉の舞台じゃんということに気がついたのは、ひととおりそういう視覚的な情報の処理が終わって、イヴがクロードとの時間について独白をするところくらいだった気がする。遅すぎるなあ。そういう意味では、ずっと掴みどころのない人に見えていたイヴが、その独白がはじまった瞬間に輪郭がはっきりしたのがすごく印象的だった。松田凌さんってすごい俳優だ。

イヴの語る愛のこと、断片的に理解できる部分もあったけれど、やっぱり私の知らない愛の境地だった。近いところにいる人の顔はいくつか思い浮かぶ。連れ、友人、好きだった女の子、昔の交際相手。それでも、わからなかった。だから、それを語れるイヴのことがすごく羨ましいと思ったし、聴くつもりなんかまるでない、理解しようともしない刑事のことが可哀想だと思った。あなたが表面上仲良さそうに言葉を交わす伴侶とあなたのあいだにあるものは、彼が語るものの前では陳腐ですらあったよ。私がこの先死ぬまでに経験できるかもわからない愛。それを表現できる松田凌さんって、やっぱりすごい俳優だ。恋愛と性愛の文脈で語られていたとはいえ、たまたまそういう発露のかたちをとっただけで、あの濃度まで煮詰めたらそれって愛の一文字でしか言えないなと考えていた。松田凌さんのイヴは、美しかった。自分が彼で、彼が自分だったと語るイヴをとおして、クロードの美しさも見えたような気がした。

それなのに、イヴは刑事の目には美しい人として映らない。男娼、同性愛者、それらは蔑むべき対象として、汚れを引き受けさせられる。イヴが汚れていることにしている、汚しているのは世間で、刑事であって、イヴが汚れているわけではないのに。そう、だから、その美しさが永遠ではなくなってしまうことが怖かったんだろう。クロードの目には未来が映っていた、未来とはすなわちふたりだけで完結できない世界のこと。

あの独白のとき、イヴは燦然とまぶしいのに、それについていけない刑事と速記者との対照性がいたたまれなかった。彼が「異質」な存在としてあつかわれることの手触りがつらい。警護官のほうは、正直まったく気がまわらなかったんだけど、速記者があの場にいることで、ジャッジするマジョリティと、ジャッジされるマイノリティという数の差が生まれてしまうことにグロさを感じていた。マイノリティはいつだってマジョリティに裁決をくだされる側。

終わり方、ものすごく好きだったな。迸るイヴの感情はどこにも伝わらず、誰にも届かずにあの部屋に流れる断絶に吸い込まれて消える。「もう、諦めるよ」という言葉を最後に、判事の部屋を出て、さらに世間の目が待ち受ける外の世界に出ていく。扉の向こうは白飛びするほどにまぶしく明るい。こんなにもまばゆい絶望があるか、と思って悲しくなった。光が、イヴにとっては光たりえないことが。終演後、同じ公演を観ていた人と会話していて、過去の上演では暗転して終わる演出もあったことを教えてもらった。それはそれで絶望を際立たせることができるだろうけど、私はこの明るい絶望がものすごく好きだったなあと思う。

言葉にフォーカスしたいから千秋楽の配信を観たいような気もするけど、でもあれは、あの距離で、あの空気で味わうことに意義のある作品だったという気持ちもあるので悩ましい。

最近何に対しても受動的で、あまり積極的に舞台の情報を事前にインプットできていないのだが、それをとても後悔することになった舞台だった。私は、ネタバレが作品の魅力を損なうような、どんでん返しの刺激を楽しむタイプの作品には、そもそもあまり食指が動かない。その物語にまつわる知識が多いほどに重層的に楽しめる、そういう味わい方を自分が好むと知っていながら、それをしなかったのには、他者の意識・解釈のフィルターを通した情報を自分のなかに取り込みたくない、それに左右されたくないという意地があるからだ。もっと過激な表現をとるなら、他人の思考に汚されたくない。できるだけまっさらな状態で作品に触れたときに自分の中に湧く、まちがいなく自分で手にした解釈や感情だといえるものがほしい。まあ、与えられるものを余さず受けとれる、語れる言葉を持つ人間でありたいという、これは憧れでもあるな。突然投げられる豪速球でも、瞬時に反応してキャッチできる人って、かっこいいじゃん、みたいな。でもだんだんわかってきた。それができるのは、情報処理能力の高い一部の人か、そうでなければある程度観劇経験があって、舞台そのものについて語れる素地がある人で、残念ながら私はそのいずれでもない。今の私が無防備な状態で舞台を観ても、それは目の粗いザルに作品を流し込むようなものだ。映画にしても舞台にしても、まず数を見ろ、とよく言われることの意味を、身をもって感じつつある。連れは日々すさまじい数の映画を観る人間だが、彼を観ていても思う。自分の好きだと思うもの、好きではないもの、何を観たいか、何を感じたいかの感覚は、実際に好きなものや好きでないものを知る中で形作られるものなのだと。数を観るには数を観るしかないので、今すぐにできないけど、すくなくとも上演中に処理する情報の負荷はできるだけ下げておいたほうが、自分が納得する観劇体験ができるんだろうなとようやく腹をくくった日だったような気がする。昨日みたいなオリジナルの完全新作は予習のしようがないからともかくとしても(それでもキャストやキャラクター相関図など事前に与えられているものはある)、今日みたいな再演作品は、あらかじめ把握できるところはなるべくしておいたほうがいい、と教訓を身に刻む。

ツイッターはあいかわらず不調で、連れには「あなたはツイッターがなくなったらどうなっちゃうんだろうねえ」と心配されている。こまめに自分の思考を排泄できないことに不安になっているけど、終わるならいっそ終わってくれた方がいい。ことに最近はちょっと離れられなくなりすぎだから。ただ、アイドルや舞台の公式情報をリアルタイムで受信できるプラットフォームとしてかなり重宝している側面が大きいので、それがいちばん困るかもしれない。