2023/7/10

朝起きた瞬間、ああだめな日だなとわかった。土日に家を掃除できなかったせいで、体の中まで澱んでいる。死にてえ、とふっと思って、これはそんな重たい憂鬱じゃない、と自分で訂正する。その繰り返しの波をやりすごしているうちに一日が終わっていて、仕事は何一つ進んでいない。見誤るな、もっと苦しかった頃を思えばこんなのなんでもないはずだ。思考の溝が深々と刻み込まれているせいで、その言葉に流れ着きやすくなっているだけ。もっと深い暗闇にいる人の苦しみを表すはず言葉を、この程度のものにあてはめて奪い去ってしまいたくない。だけどそうやって自分の悲鳴を軽んじているんじゃないか?という気もするし、自分の感覚なんか信じられない。弱さや繊細さを若さ、未熟さの証とみなすのも社会の呪いのひとつだと思っている。無神経な人間になることが成熟なら、そんなものはいらない。そう拒んでいたいのに、いい年なんだから大人になったらどうだ、という嘲りが内側から聞こえる。世間とは個人だ、と太宰治は書いたけど、個人とは世間だというほうが感覚的には近いような気がする。呪いを内面化した哀れな生き物よ。

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福岡は豪雨。ダムの緊急放流のニュースとかを見ていたら泣けてきてしまってだめだった。比較するのも違うけど、どうしても12年前の震災のときを思い出す。私は安全なところにいて、でも私が全然知らない誰かが今この瞬間に不安にさらされているんだと思うと悲しくなる。どうかご安全に、と祈る。

製造業系の企業と仕事をすることが多いので、いろんな会社の工場視察をさせてもらう機会が何度かあった。工場に行くと、ほんとうにたくさんの細かいルールや安全基準があって、そこで働く人がそれを忠実に守っていることにびっくりする。横断歩道を渡るとき、廊下の角を曲がる時には立ち止まって指差し呼称を必ずする、とか。そういう安全への意識が空気に溶けなじんだ延長で、オフィス職の「お疲れ様です」の感覚で「ご安全に」を気軽な挨拶として使う企業もけっこう多い。郷に入っては郷に従えで、部外者の私も工場内に入るときはそのルールを守らなくてはいけない。そこで働く人々は、そのルールが体に染み付いていて、きっとその背後にある意図を都度意識することはないだろう。でもそういうこまやかなルールも、習慣化された言葉遣いも、労働災害を起こすまいとする不断の努力の結晶だ。PSYCHO-PASSの常守朱の好きな台詞をここでも思い出す。

法が人を守るんじゃない。人が法を守るんです。これまで、悪を憎んで正しい生き方を探し求めてきた人々の思いが、その積み重ねが法なんです。それは、条文でもシステムでも無い、誰もが心の中に抱えてる、もろくてかけがえのない思いです。怒りや憎しみの力に比べたら、どうしようもなく簡単に壊れてしまうものなんです。だから、よりよい世界を創ろうとした、過去全ての人たちの祈りを無意味にしてしまわないために、それは最後まで頑張って守り通さなきゃいけないんです。諦めちゃいけないんです。

「ご安全に」も、そういう祈りの結晶としての言葉だと思う。私はそれが好き。どうかご安全に。

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昼休み、布団に倒れこんでスマホを眺めていたら、一時熱を上げていた俳優のvlogのリンクに流れ着いた。リリースイベントで京都に行った際の観光の記録。人力車に乗ったり、おいしいものを食べたり、神社仏閣を訪れたりと素朴な内容だったけれど、あまりに彼が自然体で楽しそうなのが素敵で、とうとう30分ほどの長さのものを最後まで見てしまった。現場に通うような応援の仕方をしていた時期はごく短いけれど、今でもSNSの投稿は見ていて、健やかで行く先が光満ちる場所であれ、とひっそり願っている。リリースされたアルバムもちゃんと聴きたいな……。

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朝に洗濯機を回したことを夜まで忘れていて、思い出した瞬間にずっしりと気持ちが沈んだ。普段ならああやっちゃった、で流せるようなことでも、一度自己嫌悪のスイッチが入ると重しになるいっぽうだ。それでもぺしゃんこに折れないあたりが昔と違うけど。自分を痛めつけたい衝動をこらえてもう一度洗濯機をまわした。

立て直したくて、筋トレと有酸素運動をした。体を動かすと、もともと湿気でべとついている肌の、その湿気と肌の間に、汗で層がもうひとつ生まれる感じがする。それがよりしろになって、肌と外気の密着度があがる。空気がまとわりついてくる息苦しさはあるけど、嫌いな感覚ではない。汗とともに肌に染み出した憂鬱を、そのあと一息に温度の低いシャワーで洗い流したら、すこし気持ちは上向いた。だけど、マイナスをどうにかゼロに戻すことばっかりだし、それだって一時奮い立たせただけの、スパイク的な瞬間風速でしかなくて、すぐに元のマイナスに戻ってしまう。深度こそ浅くなったけれど、底に留まる時間は長くなっている。振幅のせまい、凪いだ人間になってしまっていることが怖い。無気力で怠惰で、ただ時間だけが失われていく。時間は遁走する。自分がマイナスだと思っているものが自分の通常状態だということをたぶん受け入れないといけないんだけど、「やればできる」にお守りみたいにしがみついてきた人間には、それが簡単じゃない。「普段からがんばっていないと、いざという時にがんばれなくなってしまうよ」という中学の頃の担任の言葉、15年経っても胸に深々と突き刺さっている。

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連れはほんとうは自宅に帰る予定だったが、私が泣き言を言っていたらこちらに来てくれた。引っ越しの準備も進めないといけないっていうのに、私のケアを優先させてしまったことに何重にも気が引ける。まあでも、解凍してしまった豚肉を使い切るために作ったゴーヤチャンプルーを一緒に食べられたのは嬉しかった。連れの好物だし。豆腐の水切りをしっかりやって、前回の反省を活かしてゴーヤを厚めに切って食感を残したらかなり美味しくできた。あとはポン酢で浅漬にした茄子と湯むきしたトマトをごま油でちらっとして和えたやつ。料理はやっぱり手っ取り早く報われていい。