2023/7/12

亡くなった人について触れています。つらい気持ちの方は読まずにどうか好きな作品に触れたり、おいしいものを食べたり、心をゆるせる相手と言葉を交わしたりして、自分の安寧を(こんなときにはそれが何より難しいけれど)優先してください。

 

 

 

 

 

 

 

悲しいとかよりも、めちゃくちゃに怒っている。その人が選んだ生き方を、「私だったらゆるせない」「人としてどうなのか」「おかしい」って、何の関係もない、その選択の背景も過程も知り得ない人間たちが、離れたところから「素朴な気持ち」として表明するのを見たことがある。その傲慢さを、心の底から軽蔑する。そういうおまえらが、その人を死なせたんでしょう。

自分が清廉潔白な人間だなんて思っていない。その人を、あるいはその人と似た誰かが死ぬことを選ぶしかなかったとき、死ぬことを選びたいと思ってしまったとき、その人たちにそういうふうに思わせてしまった社会の空気づくりに抗わなかったという点で、私もたしかに、消極的に加担している。誰かのよりどころになれるような人間である自信も全然ないし、死ぬこと以前の救いがある社会をつくるためにどれだけのことを自分がしてきたかって胸を張れるような人間じゃない。だけど、他者のあり方を否定するなよ。おまえが、他者を裁けると思うなよ。

 

私はその人のことをあまりよく知らない。ありたい姿を、生き方を、家族像を模索し続けた人だという印象はある。それが今の社会規範に沿わないことも感じとっていたし、きっとそれでつらいこともあるだろうと想像はできたけど、それ以上のことは全然知らなかった。そういう立場から何かを言うことも、その人の尊厳を傷つける行為なのかもしれない。

怒りや悲しみだけでなく、「SNSから離れて、自分を一番に考えて」とか、まだ死なずにいる人々を思いやる言葉が見るまにタイムラインを埋め尽くしたことにも居心地の悪さを感じた。それらはたしかに優しさだけど、まるでテンプレートみたいに前にも見たことがある言葉だった。誰かが亡くなったとき、それに対してどう反応するのが正解か、私たちはもう学んでしまった。動揺をすっとばして、一連の様式として即座に反応できるくらいに、この社会が誰かの死に慣れてしまったことも悲しい。

その人に対して個人的な思い入れがあまりない私が(そしてきっと、ほかの多くの人も)こうして怒ったり、哀悼を表明したりするということは、やはりこんなことになってしまってもなお、クィアのアイコンとしての役割をその人に背負わせてしまっていることに他ならないし、そのことに後ろめたさも申し訳なさもある。事実、私はその人自身のこととして悲しんでいるというより、その人と同じ選択をしてもおかしくなかったかもしれない身近な人々をそこに重ねてしまっている。だから妙に冷静で、こんな文章を書けたりもする。

きっと同じように命を絶って、それを知られることもなかった人はほかにもいるんだろう。その人の死を同じように扱えなかったことも悲しい。私は神様じゃないからぜんぶの悲しみを知ることはできないに決まってるんだけど、でも、こういうときばっかり声を上げるのはやっぱりずるいよなとも思う。だからって何も言わないのも、それはそれで違う気がする。

死を選んだっていい。それで苦しさを終わらせられるなら、それがその人のゆるしになるならば。生きていなければならない、死ぬべきじゃなかったなんていうのは、生きることができた、死を選ばされずにすんだ人たちが言う身勝手で傲慢な断罪のひとつだ。だけど、死ぬことしか救いにならない社会はぜったいにおかしいだろ。死ぬことよりも手前に、もっと救える場所があってよかったはずだろ。

死ぬことを望んでもいい。それはあなたが悪いわけではない。社会が弱さを悪と定義し、社会があなたを弱くさせているだけだから。そういう社会で生きてくれというのは残酷だと知っている。だけど、私はやっぱりあなたのいる世界がいい。あなたがいる世界を続けていけるために、何ができるかを一緒に考えたい。

 

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これより下はそのことを知る前に書いていた部分。

今日も午後は出社。2週間ほど先送りし続けたタスクが、昨日今日だけで8割近く終わった。なんでこれが家でできないんだよと自分にあきれるやら情けないやら……だけど、進んだことは喜ばしい。この調子で、ひと月くらいToDoリストに残ったまま見て見ぬふりをしているやつも今週中に片付けられるだろうか。それができれば、仕事の負債はほぼなくなる。そんな状況、何年ぶりかな。負債がある状況って、メッセージアプリに未読バッジが残っているときみたいに、頭の片隅にずっとそのことがあって、何をするにもそれがちらついてすべてのパフォーマンスが下がるから、そこから解放されるかもしれない、と思うと気持ちが少し浮つく。

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ムビナナをきっかけに、心の表面に固化してこびりついていた汚れが少しずつ剥がれ落ちているような感覚がある。ある意味それはかさぶたであり、私の身を守る役割を果たしていた側面もあるので、それを手放すということは傷口を開くことにも等しい。それでも、かたくなで悪意や冷笑や嘲りに共鳴していた自分を遠ざけられるようになっているのが嬉しい。

月であり太陽であり風や星にもなるきみをここから見上げる

昨日ムビナナを観たあとの帰り道に考えついた短歌。あんまりうまくはないけど、気に入ってはいる。

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マイナスにとどまる時間が長くなってきていると昨日書いたけど、とどまり続けることまで受け入れたくはない。まだ踏ん張れると思っていたい、やればできる自分にしがみついていたい。ということで、7月残りの目標。

  • 冷蔵庫、ベッド、本棚買う
  • 包丁を研ぐ
    • 栗田隆子『呻きから始まる 祈りと行動に関する24の手紙』
    • 村上靖彦『客観性の落とし穴』
    • ジュール・ベルヌ『海底二万里(上)』
    • 千早茜『しろがねの葉』
    • 聖書 マタイによる福音書
  • 漫画
    • 『SLAM DUNK』
  • アニメ
    • 『水星の魔女』
    • 『BLEACH』
  • 韓国語を再開する
  • 資格の勉強を再開する(試験申し込む)

あと今週直近でやらなくちゃいけないこと、

  • ソウル2日目の宿をとる
  • ダイニングテーブルの書類を整理する
  • クリーニング受け取りに行く
  • 掃除機をかける