2023/7/13

どこか錆びついた空気の朝の会議を終えて、隣の寝室でまだ寝ている連れを見た瞬間ふっと気が緩んで、それがトリガーになって一気に悲しさが来た。突然泣いてしまって、昨日のできごとを知らなかった連れを戸惑わせてしまった。

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通勤の電車の中で、茨木のり子の詩集を読んでいた。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という有名すぎるフレーズだけを知っていて、そのあまりのもてはやされようにちょっと敬遠していたところもあるのだが、愚かな食わず嫌いだったなと思った。ひとつひとつの言葉がしなやかに美しく、まっすぐに胸に入ってくる。『準備する』と題された一篇が、ちょうど昨日のことに重なった。ほかにも響くものがたくさんあって、思わず泣きそうになるのを何度もこらえなくてはならなかったし、あっという間に折り目だらけになった。

美しいものに身を浸していたい。やわらかく優しいものだけしか目に入れたくない。現実逃避の側面もあるし、つまり今も傷ついている人たちから目をそらすことになってしまうのかもしれないと思うと怖いけど、そうじゃなくてこれは、悪意を拒否することの表明だ。人間の悪の側面を、そういうものだからと受け入れたくない。冷静ぶった傲慢さを、他者を裁いて高みの見物をしたがる卑しさもこの身に近づけたくない、そんな人間や言葉にこの身を明け渡してやらない。そういう意志。現状の追認を冷静さだと勘違いして理想を描くことをやめた愚かな人々、私はそこに加わらない。強くならない、鈍くならない、それが未熟さというならそれでいい。人を死にまで追いやる社会の成熟の定義なんか、そっちが間違ってんだ。

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昨日に引き続き、昼食はコンビニのサラダパスタ。昨日は夜もパスタだったので、麺類づいている。せっかく水筒にお茶を入れたのに台所に忘れてきて悲しい。今日は多少涼しいとはいえ、さすがにがまんするには命の危険を感じる季節なのでペットボトル飲料を買う。

昨日の進み具合とはうってかわって、昨日のことを考えてしまってあまり仕事は進まなかったけど、それでも一番重かったタスクは半ばむりやり終わらせた。

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新宿、紀伊國屋ホールで舞台『ダブルブッキング』の初日公演。正直、全然気持ちが向いていなくて、おもしろくなかったら残りのチケットも手放そうと考えながら向かっていたのだが、杞憂だった。好きな俳優は、めちゃくちゃに好きな俳優だった。こんなにも簡単に気分が切り替わってしまえることに、自分がたいそう薄情な人間であることを再確認してなんだかなあと思うが、重たく沈んでいた気持ちをひっぱりあげてくれるだけのものを、好きな俳優が見せてくれたことはたしかだ。

2劇場同時上演で、片方だけで物語は完結するとはいえ、やはり両方を観ないと見えてこないものは多い印象。そういう状態で内容について語るのはちょっとためらいがあるんだけど、でもせっかくの初回、まっさらな状態で感じたことをなかったことにするのももったいないか。学生演劇をほんのちょっぴりかじっていた身として共感するところもあったし、演劇をやっている人ならなおのこと感じるものも多いのかもしれないけど、本としてはわりとベタだと思った。でも、違和感なく場がつながっていることはやっぱりすごい。ノンネイティブのキャラクターの描き方はちょっと、ていうかだいぶうーんと思った。カタコトをおもしろ要素として取り扱うのは私の倫理に反するので。

ただ、とにかく俳優の演技がよかった。どちらかというと紀伊國屋ホール側は年長組が中心の物語なので、たぶんトップスで見たら印象はまた違うんだろうけど、ベテラン組の演技には、さすがと思わされるものが多かった。その分、若手はもうすこし……がんばれ…!という気持ちにもなったけど、キャラクターの位置づけ的にもそういう感じだからちょうど良かった、というかそこまで意図しているのかも?と思えないこともなく、それはそれでありかもしれない。

理解できないこと、見えていないことは表現しようがないのだから、人間が人間を演じるとき、その役はその俳優が咀嚼し解釈した人間の要素によって構成されているはずだ。私が舞台で脚本や演出よりも演技に意識が向きがちなのは、人間が人間をどのように解釈するかに興味があるからだと思う。好きな俳優にかかわらず、その解釈の精緻さ、深さを感じさせる俳優が好きだ。「なぜそう動くのか」「なぜそう言うのか」なんて、すべてが理路整然と説明できる生き物ではないところまで含めたアンビバレントな存在としての解釈。そうなると、ある程度経験が長い人のほうがうまくなりやすいのは必然だと思う。かといって経験や年齢だけで十分なはずはなく、自分や他者を噛み砕いていくのってしんどい作業で、向き合うという意志のうえに得られるものだとも思うから、そういう意志を感じたときにかっこいいなあと思うわけ。人間を志向する俳優、とでもいうのかな。芝居が目的化していない俳優。

そのうえで、私は久保田さんのつくる人間の味付けがいっとう好きだ。好きありきになってしまってるんじゃないか、批判的な態度を持てなくなっているんじゃないかって考えるときもある(別にそれが悪いわけじゃないが)んだけど、演じているところを観てしまうと、ぜんぶ吹き飛ばされてゼロに戻った状態で「うわー好きだ!」って感じている気がする。その感覚を自分で信じてやりたい。すこし前のトークイベントで、自分の演じる役について事細かに説明して、プロデューサー(だったかな)から「それもうほとんど言っちゃってるからその辺にしとこう!」ってストップをかけられていたけど、実際に観てみて、たしかにあれはほとんど言っちゃってたなと愉快な気持ちになった。だけど、与えられた情報としてのみ存在していた「藤崎竜一」という像が、劇場のなかで生きる人間として、立体的に現実的に立ち上がっているのを目の当たりにしたときの感覚って、まごうことなき高揚だ。登場した瞬間に、ああこういう人いるよなあって笑ってしまった。いけすかなくて、不遜で、でも不器用で、内側に熱を秘めている人。初めて舞台のうえにいるところを見て、この人の声が好きだ!と思ったあの日の直感は間違っていなかったんだ、って今日も思った。大好きで嬉しい。というか、映像ではいくつか観ていたけど、よく考えたらストプレの久保田さんをこの目で観るのははじめてで、新鮮な感じの好きだった。うれしい。たのしい。