2023/7/25

朝、長めの会議。ほかのメンバーが主体の活動で、私はお目付け役的な立ち位置として入ったから、あまりしゃしゃり出るのも気が引けていたけど、進捗が芳しくないのでどんどん口を出していくことにした。若手主体で活動を推進してもらうことで、彼らのリーダースキルを成長させたいという思いもあるのだが、けっきょくのところ、そういう推進力を持った仕切り屋の役割を果たせるのは経験と発言力のある中堅にかぎられるのが悩ましい。私が前に出ることでその人らの成長の機会を奪ってしまうことには歯がゆさもあるが、活動に割ける時間的・金銭的リソースが有限である中で一定の成果を求められるとなると、悠長にしてもいられないというジレンマがついてまわる。営利企業というのはどうしたって短期的な、目先の利益を評価しがちな場所だからだ。リーダースキルをうまく伝授しつつ、足りないところだけアシストする、という関わり方をできるのが理想だが、これには私の力が足りない。ただ、誰もが勝手に成長するわけではないし、「見て学べ」は教える側の怠慢だと思う。人をうまく使うことは、人をうまく育てることなのだなと思う。

若手を育成する立場は私自身が希望したものだ。組織が私に求めるのは、長期的に見たときに、その若手を組織に利益をもたらす存在に仕立てあげることだが、私のモチベーションはそれよりも、私とかかわるその人がこの先この社会で生き延びる術を養う手助けをしたいというところにある。会社とはどんな場所で、どうやって仕事をするのか。それがわかるようになれば、細かい内容は異なっても、大海を泳げるようになる。教育は権力の勾配を均す営みだ、というフロムの言葉をずっとお守りのように反芻している。そういう役割を果たすうえで、所属組織で私以上の適任はいないと思っている。相手の性格や知識・技術レベルをふまえて、相手ごとに一番伝わるコミュニケーションをカスタマイズするのが得意だという自負があったし、6年目という、年次的にも若手から遠すぎず、「話しやすい先輩」としてちょうどいい距離にいることもある。

だが、育成の対象は常に、組織の期待する成長の度合いを満たしているかという評価の視線に晒されることになる。そして、育成する役割を私が担う以上、その評価を下すのが私だ。そのことが苦しい。能力主義が根差した場所で人を育てることの欺瞞を考えずにはいられない。そもそも、労働者は成長し続けなくてはならないという考えが自明のものとして扱われることだって、本来は懐疑の対象であるべきなのに。

そういう苦味を飲み込んで(目をそらして)、会社にとって望ましいふるまいができることを「仕事ができる」と形容することも可能だけど、視点を変えれば権力への迎合にすぎない。抗いたいと思っているはずのネオリベラル的価値観(成果至上主義、能力主義、努力至上主義……)に物分かりの良さを示してしまう自分のことが、あろうことかそれに誇らしささえ抱いてしまう自分のことが、恥ずかしいし不甲斐ない。それはマイノリティや弱者を抑圧することに加担する人間であるということだから。

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早めの昼休みにして、連れと冷蔵庫を買いに行った。ついに。届くのは明後日。楽しみでたまらない。134Lの狭い庫内で食材をパズルのように押し込むフラストレーションからようやく解放されるのだ。ただ、今ある食材を早めに使い切ってしまわないといけない。

その帰りにクレープ屋で昼食をとった。店員さんの手さばきが見事で、思わず見惚れてしまった。同時並行でいくつもの注文を作っていくのだが、その動きに全然無駄がない。私はマルチタスクがとても苦手なので、てきぱきと動く店員さんがすごくかっこよく見えた。向こうからすると、注文を待っている客にじっと見つめられるのは落ち着かなかっただろうけれど。

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夕飯はほうれん草の胡麻和え、豚肉ときゅうりと人参のオイスターソース炒め、焼きとうもろこし。冷蔵庫の食材消費メニュー。胡麻和えは、昨日の棒棒鶏のために作ったピリ辛の胡麻だれの余ったものを再利用したものだが、これがおいしかった。

食後は『ベイビーわるきゅーれ』を観た。いわゆる説明台詞といわれるようなものがなく、作り物の会話なのにあんなにもリアルなことに感心した。おっとりした話し方をするまひろが時折見せる身のこなしの軽さがすっごくかっこよかった。かなり好きな作品だったなあ。

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布団に入ってから連れと話していて、最近ムビナナのおかげですこし毒が抜けたような気がすると言ったら、先月はちょっとつらそうだったもんねと言われた。思い返してみれば要所要所で落ち込んだり、連れに甘やかされたりしていた記憶はあるのだが、それでもそういうふうに見えていたのか、とちょっとびっくりした。でも、最近はほんとうに自分がなりたい自分に近いところにいるかなあと思う。