2023/7/31

昼食は連れがカルボナーラを作ってくれた。

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生理前のはずだが、調子は悪くない。仕事で飛んできたタスクをそれなりにタイムリーに打ち返せていて、それだけでも自己嫌悪に陥らなくてすむ。仕事を終えたあと、ぼうっとインターネットを漂っていたら近所のスーパーマーケットの閉店時間が近づいてきてしまい、『蛍の光』が流れる中にあわてて駆け込んだ。

この頃しきりに連れがカレーを食べたがっていたのと、ちょうどひき肉も買ってあったので、今日はキーマカレーと決めていた。モロヘイヤとオクラと鶏肉のスパイシースープ煮も作った。どちらも味はかなり上出来だった。でも、なんだかんだで作り終えるのに2時間以上かかっている。今日はとんでもない量の野菜を刻む工程があった(玉葱、ピーマン、人参、茄子、ズッキーニ、トマトなどを無心で刻み続けているうちに1時間以上が過ぎていた)とはいえ、毎日夕食の準備に時間をとられすぎるのは。ひとりだった頃は、2人前作れば3日分の作り置きにできたし、作る気になれない日は適当にすませたり、食べないと選択肢をとったりすることもできた。でも、連れは遅い時間に仕事を終えて食事を楽しみに帰宅してくるし、私も連れと一緒に美味しいものを食べたい。今は忙しくないからこれでも生活はまわるけど(それでも日記を書く時間は不足気味)、仕事が立て込んできた時が気がかりだ。

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もう長らく使わずに残していたアカウントたちも、アーカイブデータの取得請求を出した。ダウンロードができたらアカウントを消すつもりでいる。すこしだけ、死ぬ準備をしていた頃みたいだと思った。誰からも忘れられようとしていた頃。ただ、ためらいはある。このままアーカイブが取得できなければ、アカウントを残す言い訳ができるのに。そんなことを考えてしまうほどには。とりわけ、創作をしていたアカウントを消す決心はなかなかつかない。それなりにフォロワー数が多かった過去に執着してしまう自己顕示欲もあるし、今でもしょっちゅう一緒に遊びに行く6年来の付き合いの友人や、好きだった女の子と出会った場所だったから愛着だってある。物を書くことの楽しさを教えてくれた場所、私が初めて私自身で生きることを知った場所。さみしいに決まっている。慣れ親しんだ場を「奪われた」という怒りは拭えないけれど、身軽になるにはいいのかもしれない、とも思っている。痛みが伴わない喪失はないから。

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今朝、家を出る連れにキスをしながら、女を愛せる私はこのまま死ぬんだな、と思った。連れの帰る場所が私と同じであることが嬉しい。話したいことがあったときに、それを思ったままに口にできることが嬉しい。私は連れのことが心底好きで、大事にしたくて、一緒にいられることが嬉しい。だけど、私のなかに存在したはずのものが少しずつ削れていく。同性に恋をし、欲をいだく部分の私が、なかったことになっていく。

セクシュアリティはパートナーの有無に規定されない、という。それはたぶん正しい。正しいということにしておかないと、その人のセクシュアリティは他者しか決められないことになってしまうから。でも、ほんとうにそうだろうか?と時々思う。レズビアンの女性は、たとえ独身でもレズビアンだ。だけどそれは、今というスナップショットにおいて独身というだけで、この先同性のパートナーと一緒になる可能性があるから言えることだ。人間は社会の中で生きる生き物だ。社会で生きるということは、他者からまなざされるということだ。私が女性にも男性にも恋をして性欲を抱いてきた過去を持ち、今ひとりでレズビアンのアダルトビデオを観たり、好きだった女の子への気持ちをまるきりなかったことにできないままでいたりしようが、社会が見る私は、「男性とともに生きることを選んだ女性」でしかない。私を、「ふつうの」ヘテロセクシュアルから区別する方法はもうないのだ。違うのに。違うのに!もちろん、永遠も絶対もないから、連れとこの先別れることはあるかもしれないし、そうしたら私は自分をバイセクシュアルだと言うことに後ろめたさを感じなくてもすむんだろう。でも、今は、私は連れと生きていくつもりでいる。それは、女性と生きる未来を今は手放したということで、バイセクシュアルの自分を消したということなんじゃないかと、思う。身勝手な話だけど、好きだった女の子のことをかたくなに「好きだった人」と呼ぼうとしないのは、(それが彼女にとってミスジェンダリングになっていないことは前提として)私のバイセクシュアリティを証明するためでもあるのだろうと思う。別に証明しなくちゃいけないわけじゃないんだけど、でも存在が認識されないこと、世界からいないものとされることは、やっぱり嫌だ。

ところで、未来の可能性という切り口のほかにも、自分のクィア性を喪失していると感じる根拠がある。

接する相手によってすこしずつふるまいを変えるのは、誰にでもあることだろう。連れといる私、友人といる私、好きだった女の子といる私、親といる私、会社の同僚といる私は全部違う。平野啓一郎はこの異なる私のそれぞれを「分人(dividual)」という単位で呼んだ。気の強さや攻撃性を混ぜてみたり、優しさの濃度を高めてみたり。

マジョリティのヘテロカップルがするのと同じように、私と連れのコミュニケーションの形態にはキスやセックスなどの性的なものが含まれる。連れとそういう関わりが嫌なわけではけっしてないが、彼との関係において、自分に分かちがたく組み込まれた性別規範や恋愛規範の存在を感じることはしょっちゅうあって、そういうとき、どうしようもなく悲しい。私は、「男」の前で「恋人」の「女」がどうふるまうのが正解のコードかを知っている。「男」の連れが何をかわいいと思うか、愛おしいと思うか、セクシーだと思うかを知っていて、それに添うようにふるまう。そのように私がターゲットとする連れの感覚もまた、社会が規範とする男性性が内面化されたものだ。

相手の前でどうふるまうか、その「分人の調合ルール」とでもいうべきものには、ジェンダーという外的な規範が組み込まれている。つまり、「恋人の」「男」の前で、私は「女」に自分を「寄せている」。ヘテロセクシュアルの女になっていく感覚があるのである。といっても、無理をして意志の力で自分を捻じ曲げているというのではなく、むしろそれが意識せずにできてしまうことに、この話の根深さがある。望んでいないはずなのに、帰納法的に世間の想定する「男と女」の中に自分が収斂されていくことを感じると、喚き出したくなる。どうして私たちは、人間と人間として触れ合えないのだろう。どうして規範のもたらすイデア的男性/女性像を、イデア的恋愛を、模倣することしかできないのだろう。

私が自分をパンセクシュアルではなくバイセクシュアルと呼ぶ理由はこのあたりにある。相手のジェンダーに自分のふるまいが影響を受ける感覚があるからだ。ただしこれは、ミスジェンダリングの危険性と隣り合わせでもあって、性別二元論に反対したいと思っている立場として、自分の感覚とどう折り合いをつければいいのだろう、とは常々考えている。今のところわかっているのは、組み込まれた規範から自由になることは簡単じゃないってことだけ。

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『水星の魔女』の公式のクィアベイティングが話題になっていた。ところで、クィアベイティングという批判における「クィア」とは、親密なふたり=恋愛関係という想定がある、すなわちロマンティックラブイデオロギーに基づくものであり、そこからはAro/Aceが疎外されているという友人の指摘には頷かされた。差別を批判するとき、それが別の誰かを踏みつける形になっていないか、は常に気をつけていたいところだなと思った。