2023/9/12

そんなに忙しい日になる予定ではなかったから、腰を据えて翌日の会議資料を考えるつもりでいたのに、朝になったらばたばたと会議案内が舞い込んできた。けっきょくやりたかったことはほとんど終わらず、鬱々とした気持ちのまま夕方を迎えた。咲人さんのライブの予定があったけど、とてもそんな気分じゃなかった。もうなんか、行くのやめよっかな。と思いつつ、チケットを紙屑にしてしまうのはどうしても気が引けるという貧乏性で、洒落っ気なんて放り出した適当な格好で、化粧もせずに家を出た。開演にはとっくに間に合っていなかったけど、走る気にもなれなくて、駅からライブハウスに向かうまでの道の間でも、やっぱり帰ろうかなって何度も頭をよぎった。装っていない姿で繁華街を抜けるときって心臓がちょっときゅっとする。自分が街にそぐわない感じ。

どんなに気分が向いていなくても、現場が私に光をくれなかったことなど、一度たりともない。わかりきってることなのに、でも行く前っていつもなんでか忘れちゃうんだよな。それで、行ったら思い出す。地下に続く階段を下りるにつれて地上の喧騒は遠のいて、低く壁を揺らすような振動が近づいてきたらちょっとわくわくしてきて、重たい扉を開けた瞬間にぶわりと音が突風みたいに顔に吹き付けてきたのを感じてつい口角がゆるんだ。

水底にいるみたいで、ずっと気持ちが良かった。すべてを水に預けて、力を抜いて漂っているときの、あの感じ。全身が音に包まれて、重力が薄れて、思考がぜんぶ波にさらわれて、ゆるやかな倦怠感に置き換わっていく。かと思えば、ベースの振動が心臓に響いて、自分の肉体を感知する。生きている、と思う。その瞬間自分の存在を忘れさせてくれるのが舞台やコンサートだとしたら、ライブは、自分が生きてこの空間にいるということを教えてくれる場所。高揚感に満ちた大きなコンサートの会場も、緊張の張りつめる劇場も好きだけど、一番ほっとするのはライブハウスかもしれない。ライブはシンプルだ。音を楽しめばいい。難しいことを考えなくていい。それって赦しであり解放だ。音に身を委ねているうちに、肉体にも精神にもまとわりついていた縄がほどけていくような気がしてくる。

ライブでしかできないことをやりたい、と咲人さんは言った。アンコール1曲目、静かにはじまった薩婆訶-そわか-が、それぞれのソロ回しを経て音のうねりの激しさを増していくのを見て、自分の中までふつふつと静かに高揚していくのがわかった。音楽が生まれる瞬間の神聖さを目撃していた。トオルさんは、終わった瞬間に、楽しかったー、と言葉を漏らしていた。それはほんとうに、思わずこぼれてしまったという感じの、素朴な言葉で、それがなんだかすごく羨ましくて、でもその楽しさをこちら側の私も味わえたことが嬉しかった。

初めて好きになった中学生のころ、ビジュアル系を好きでいることに渋い顔をされ、ライブには行かせてもらえなかったし、憧れからこっそり開けたピアスは穴が安定しないうちに外されてふさがってしまった。その私が今、インダストリアルやへそにピアスを開け、タトゥーを体に刻んで、夜の新宿の繁華街のライブハウスに一人で来ている。私はよくジュンくんのことを月にたとえるけれど、それでいうなら咲人さんは北極星のような人。ふっと夜空を見上げたときに、いつも同じ場所にやわらかく光る指針でいてくれたから、あの頃自分が手にできなかったものを、今の私は私に与えてやれる。私はずっと、ここにいたかったんだよな。ステージの上で気持ちよさそうに演奏する咲人さんを見ながら、そう思って嬉しくなっていた。

熱心なファンからは程遠いけれど、咲人さんのソロも、ナイトメアも、東京でやるライブにはできるだけ顔を出していたいと思う。過去の私まで含めて愛してやれる場所をくれる人だから。