ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.5 最後の事件 鑑賞後記②

終わってしまった。千秋楽を終え、放心状態で帰宅してこれを書いている。本当に、本当に大事な作品になった。キャスト別、シーン別の感想は別で書きたいけど、どうしても今のこの気持ちを忘れたくなくて、これだけ。

※大阪初日・2日目を見て書いた感想はこっち

演劇が好きだ。終演を迎えるたびにそう思っていた。今までだって好きだったつもりだったけど、それにしても自分がこんなにも演劇を愛していたのだということを教えられた3週間だった。大げさでもなんでもなく、この舞台が存在することが希望だと、心の底から思う。

社会がよい場所であったことなどない。物語の舞台である19世紀ロンドンも、2023年の日本も、格差社会という意味ではさして変わらない。アルバートはアイリーンに、「階級社会から完全自由社会への弁証法的発展」が犯罪卿の目的であると語った(原作第21話『大英帝国の醜聞 第5幕』より)けれど、明確な階級制度がなくなった現代でも、格差は現実として存在する。階級を定義するのが身分ではなく資本力に置き換わっただけのことだ。「完全」自由社会の実現に、私たちは現在進行系で失敗している(完全自由社会なるものが存在しえたとして、それがほんとうに望ましい社会と言えるのかどうかについて、私はまだ答えを持たないけど)。明確な階級制度がなくなって、建前上は自由になったように見えるだけ、現代のほうがたちが悪いんじゃないかとすら思う。悪魔は今もいるのだ。きっとウィリアムは、この未来もわかっていたのだろうと思う。だからこそ、新しい世界でも苦しむ人がいるだろうことを見越して、シャーロックに宛てた手紙の中で、彼らを救ってほしいと頼んでいるわけで。

私は左派のフェミニストとして、常々この悪魔にどうあらがえばいいのか考えているけれど、未だに答えは出ない。ホワイトリーにも、ウィリアムにも、シャーロックにもなれない私が、よりよい社会のために、一体何ができるというのだろう。人間は「良い社会」を実現するには愚かすぎたというだけのことではないか。希望を持つだけ苦しいのなら、いっそ、ただそういうものだと諦観に浸って、死ぬまでやり過ごすしかないんじゃないか。理想を語れなくなったら終わりだと思いながらも、そういう無力感にかまけそうになる。20代の終わりを迎えようとするにつれ、その感覚は強まっている。

それでも、この世界は美しくなりうるのかもしれないという希望を提示してくれたのが、この作品だった。人間に、社会に、絶望しなくてもいいのだと思わせてくれた。そう思わせてくれたのは、作中で貴族と市民が手を取り合って、犯罪卿が引き起こした大火から街を守るという、階級制度の打開を象徴する場面だけではない。 シャーロックが、リアムに追いつこう、理解しようとすること、アルバートがウィリアムの十字架を肩代わりしようとすること、モランがウィリアムの願いを叶えようとすること、ルイスとフレッドがウィリアムに生きてほしいと願うこと、マイクロフトがアルバートとともに惑い続けようとすること、ジョンがシャーロックを信じること、ハドソンさんがシャーロックの帰りを待ち続けること。人間は、誰かと共に生きたいと願うことができる。誰かの重荷や痛みを、共に背負おうとすることができる。他者を理解しようともがくことができる。そういう努力の先にのみ、よりよい社会は存在することができる。人間は愚かで、良い社会を実現させることもいまだにできていないけど、それでも、よりよい社会を目指そうとすることができるのも、人間なのだ。

この舞台は安直な、楽観的な生命讃歌の作品ではないと、前回の感想で書いた。生きることの苦しさ、重さを前提とした、もっと質量と湿度のあるものだ。そこに加えたいのは、人はいつか分かり合えるという楽観的な希望の物語でもないということだ。わかり合えなくても他者を愛することはできる、という、もっとずっと難しい愛の在り方の提示だったと思う。

自分の外にあるものを理解しようとするのは途方もない作業だし、その努力の果てにわかり合えないことだっていくらでもある。どんなに近しい相手であっても、他者と本質的に理解しあえることはない。魂が近いところにある友人のことも、一緒に暮らす連れのことも、私は死ぬまで理解できない。シャーロックだって、ウィリアムの思惑や計画の意図は理解できても、その苦しみを想像することはできても、ウィリアムの感じる苦しみそのものを味わえたわけじゃない。相手になることができない以上、「いつかわかり合えるはず」なんてものは幻想だと私は思う。でも、それは、相手を理解しようとすることを諦める理由にはならない。わかりあえなくてもわかりたいと願うこと、あるいはわからないままで共にあろうと努力をすること、それを愛と呼ぶんじゃないか。

私が今回、「モリミュが好き」にとどまらず、「演劇が好き」だと感じた理由もここにある。他者を理解しようとすること、それはこの物語の中だけではない。演劇とは、劇場の中にひとつの世界を作り上げる試みだ。そしてそれは、他者や世界を理解したいという意志のうえに成り立つものである。理解していないこと・目に見えていないものは表現・再現できないのだから、人間が人間を演じること、世界を構築しようとすることは、演じる役、作ろうとする世界を理解し、受容しようとすることに始まる。キャストやスタッフのそういう努力の果てに、19世紀ロンドンは私の前に存在しえた、という事実が、とてつもない希望だと思う。人間がそういう努力をできる生き物だということが。

「人は脆く儚いもの 生きるよすがなど、うたかたの幻」

シャーロックがウィリアムを救いたいとジョンに話すときのナンバーの詞だ。鈴木勝吾さんは、東京公演も後半に差し掛かったいつだかのカーテンコールで、「終わってほしくないけれど、終わりが来ることにこそ演劇の美しさがある」と話していた(ニュアンス)。演劇もまた、幻であることに違いはない。でも、その幻が生きるよすがになりうるのだ。「劇場に来れば、その時々で必要としているものを伝えられる。そのために僕たちは舞台人をやっていく」という、千秋楽での勝吾さんの言葉も、きっとこれから先何度も思い返すことになるだろうと思う。脆くて儚い生き物であっても、誰かの生きるよすがを生み出すことができるという事実が燦然とまぶしい。うたかただったとしても、今この瞬間だけは、生きることをやめずにここまで来てよかったんだと思えることが嬉しい。

すばらしい舞台を、希望を、ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。