2023/12/20

仕事へのモチベーションがまた低迷している。やってもやっても徒労に終わる感じ、自分に非がないと滑稽で愉快ではあるのだけど、充実感はない。暇な状態って落ち着かなくて苦手だ。時間が空いているので、積読になっていた『違国日記』を全巻読んだ。変なところに刺さってしまって、しばらく布団の中で嗚咽する羽目になった。このところずっと、人と話すのが怖い。私に人とかかわる資格はない。「それでも」、と槙生は言ったけど、私には今その「それでも」を引き止めておけない。いや、インターネットでものを書くことをやめられていないんだから、やっぱり「それでも」なのかな。忘れられたいって言いながら、忘れないでって思ってる。毎日私のことを考えて。かかわりたくない。かかわっていたい。ずっとその振り子の間で、同じ人のことを考えている。私のたったひとりの魂の片割れ。

別に優しくあろうとすることをやめたつもりはない。ただ、優しくあろうとすることだけでは優しさではないのだと、どうしても思ってしまう。私の愛する友人たちの優しさは、それ自体、痛みから生まれでたもので、切実な優しさだと思う。鈍感で無痛な私たちの優しさには、説得力がない。そういう話を友人とした。どうして私は痛みを感じなくていいんだろう。どうして苦しむのが私じゃなかったんだろう。幼稚なヒロイズムだ、わかっている。それに、これは友人たちをはじめ、望まぬ痛みを味わわされてしまったすべての人たちの経験を軽視し侮辱する考えでもある。なのに、私が異性の連れと一緒に生きて、正社員として大企業で働いて、正月には実家に帰り、どう考えたところでマジョリティ王道を突っ走るような生き方を選びながら、バイセクシャルというマイノリティの肩書を手放せずにいるのは、やっぱりそういう切実な優しさを手にするためのよりしろとして使っているからなんだろうと思う。なんて卑怯な人間なんでしょうか。ずっと恥ずかしくて殺したいよ。そう、死にたいのではない。私は私を消してしまいたいのだ。

連れが帰宅したときもまだ泣いていたので、夕食を楽しみに浮足立って帰ってきた連れはたいそう驚いていた。シャワーに連れていってもらって、どうにか立て直した。夕食は扁炉鍋。準備をしながら、フムスをクラッカーに塗って、一昨日のチキンケバブの炒め油をかけて食べる。キッチンで料理しながら飲むビールって格別に美味い気がする。鍋の白菜が煮えるのを待つあいだに『葬送のフリーレン』を2話観た。鍋に入れる調味料は胡麻油のみ、味付けといえば食べるときに塩を溶くだけの潔い料理だが、こういうときに使う、ちょっと良い塩がうちにはない。そう私がぼやいたら、「そう言うと思って、買ってきたんだよね」と連れが鞄から藻塩を出してきたので笑ってしまった。愛しいし、なんというか、敵わないなあと思う。日本酒を飲んで酔っぱらって、早々に眠ってしまった。

連れに甘やかされている。交際を再開してからこの人と一緒にいる時間のすべて、幸福でなかったことがない。こんなにも与えられるものに浸っていたら、そのうち私は死んでしまう。あまりにも満たされるから、それ以外の他者を望まなくなる。これ以上を望むべきでもないと思う。他者を望まなくなるということは、他者を思わなくなるということだ。世界はどんどん閉じていく。大事に大事にあつかわれて、そのままでいいよって全肯定されるうちに、考える力が、動く力が、より良い世界を望む力が溶けてゆくような気がしている。ずっとあったかいぬるま湯。これだと連れのせいにしているみたいだな、そうじゃないんだけど。でも、私と連れの世界は、社会からちょっと隔絶している。ここは明確に、家の中の領域だ。ここは安全で、傷つかない。その世界の比重が私の中でどんどん大きくなっていくことが怖い。