7月15日(水)生と死の遠近感

9時半に起床。カーテンと窓を開け、トイレに行き、体重計に乗る。オレンジジュースとヨーグルトをとる。ルーティーン化することの意義がよくわかる。考えなくても体が動いてくれるのは楽だ。いつもより遅めに起きたので、今日は韓国語はやらないことにした。

昨日あれだけ取り掛かりたくなくてぐずぐずした仕事は、着手したらあっさり終わった。馬鹿だなあ、と思う。午前中はそれで終わって、午後は会議がひとつ。久しぶりにお客さんの前で(オンラインだけど)話したら、ちょっと気分がぱりっとしたけれど、それも長くは続かなかった。低気圧が重たい。首周りが凝っていて、脳への血流が足りていない感じがする。鼻水は収まったけれど、調子が悪い。会議のあとはベッドのうえで伸びていた。今日中に片付けようと思っていたタスクは、3つのうち1つしか終わっていない。

余裕のある時は羽を伸ばせばいい、と思う自分と、せっかく時間がある今のうちにできることをしておけ、と思う自分とが綱引きをしていて、それに消耗する。羽を伸ばすならそう決めてしまえばいいのに、それができないで中途半端な関わり方をしているから、余計に自己嫌悪が増す。責任の境界線について考えている。前はもっと簡単だった気がしたものが、わからなくなっていく。先日くだされた保守的になっている、という評価が魚の小骨のように引っかかっている。守りに入りたくはない。それは私の仕事じゃありません、と他者に投げ出すような無責任な人間にはなりたくない。かといって、ぜんぶ自分でやりますというのもそれはそれで無責任な話だ。どこまでやれば私は私の仕事をきちんとやったことになるのだろうか。休まなくちゃならないという強迫観念もある。ここで休んでおかないと、この先持たなくなりそうで怖い。だけど、どこまで行ったら休んで良いのかがわからない。自分で自分に休んでいいよ、といえる勇気がないので、ぼんやりとパソコンの画面を眺め続けてしまう。

7時、ドラマを見ながらフィットネスバイクを40分。寒いのであんまり汗をかかない。運動している感じがしなくて物足りない。それから筋トレ。プランクは腕を組んだほうが体勢が安定して良い、と友人が教えてくれたので実践してみたら、たしかに多少楽に感じた。今日はストレッチは休みの日。気付かないうちに右太ももの裏を伸ばしすぎたらしくて、この2日ほどすこし痛い。

シャワーの前に買い物に行くことにして、外に出た。生地の厚い5分丈のシャツを着たのに、それでも肌寒かった。ベランダから確かめたときは降っていないように見えたのに、傘を差すか迷うくらいの小雨が降っていた。雨の匂いが濃くて、秋みたいだ。通りに人気はなくて、マスクを外して冷たい空気を肺に満たした。こういう日に、好きな男が隣にいたら楽しいのにな、と思う。食事を作る気分じゃなかったから、惣菜をいくつか買った。共働きらしい夫婦が、家で待っているらしい娘の好みについて話しながら惣菜を選んでいて、ちょっとうらやましいなと思った。家族なんて共同体、心底くだらないと思っているくせに。

菓子の棚を物色していた時、少し離れたところで搬入作業をしていた男性の店員に、「水とかも、いつでも休憩とっていいからね」と声をかけられた。もちろん私に対してではなく、私のほうに歩いてきた若い店員の背中に向けた言葉だった。察するに、彼女のほうは働きはじめたばかりで、男性のほうが指導役というところか。そういえば、数日前、「研修中なのでお会計に時間がかかります」という札が立っていたレジにいた店員だ。ちょうど私のすぐ近くに差し掛かっていた彼女は、歩みは止めずに彼のほうを振り返って「そうなんですね!」と明るい声で返しつつ、颯爽と私の前を通過していった。会釈をしたり、失礼しますとひとこと断りを入れたりすることもなく、まるで私のことが見えていないかのように横切っていった彼女がなんだか新鮮で、愉快になった。韓国の食堂の、注文をとる時と料理を運ぶ時以外は、隅の席で世間話に興じている店員たちのことを思い出した。そういうのでいいのになと思う。客が偉くて、店員は仕える側、みたいな序列がもっとなくなればいい。客だからというだけで機械的に繰り出される、意義を失った慇懃な礼儀なんかほしくないのだ。もっと自然だったらいい。そのあと、別の通路でふたりを見かけた時も、楽しそうに会話しながら、ダンボールの中の品を棚に陳列していた。

なんでもない光景だ。なぜ自分がこれを書き残したいと思ったのかもわからないけど、「いつでも休憩とっていいからね」という言葉や、売り場で楽しげに談笑しながら働く彼らが、ひたすら眩しく思えた。

帰宅して、惣菜を食べながらドラマの続きを観た。GleeのS4、18話。いつもどおりのコミカルな調子から一転、校内に銃声が響いて、緊迫した空気になる話だった。これまでの番組の姿勢から、実在の事件をモチーフにしているのであろうことも容易に伺えて、あまりにもショックで、ずっと涙が止まらなかった。発砲音が鳴った瞬間、ウィルとビーストは音楽室にいた生徒たちに隠れろと指示しながら真っ先に教室の鍵をかけていた。生徒たちも、自らを隠せるように室内の物を素早く動かして盾にして、その陰に隠れていた。タイミングが悪くトイレにいたブリトニーはひとりで個室に入って、息を潜めて泣きながら便器のうえに立っていた。もし犯人が入ってきた時に、脚が見えて存在を気付かれたりすることがないようにするための行為だということは、カメラワークで描写されるまで、私には理解できなかった。万が一のときに、そういうふうに動けるための訓練を受けているんだなということが、そしてそれがけっしてフィクションの中だけの話じゃないことが、重くてたまらなかった。なおのこと、天然(この表現は好かないけど)で言動がファンタジックなキャラクターとして描かれるブリトニーでさえ、そう振る舞うのが正しいと知っていることが、何よりも悲しかった。それはすなわち、それだけいざという時に生き延びるための術を彼らが教え込まれているのだということであり、いざという時が起こりうるものであるという共通認識があるということであり、どれだけ銃というものがアメリカに影を落とす存在なのかというのを克明に浮かび上がらせているものだったから。私たちにとっての避難訓練と同じだけど、そこに悪意の存在が前提されている分、もっとずっと苦しいものだった。短いあいだとはいえ、かつて暮らしていたこともある国の話だというのがショックで、どう気持ちを整理していいのかわからない。これを書きながらまた泣いているけど、これが恐怖なのか、悲しみなのかもよくわからない。人を殺すための道具なんか、あっていいはずがない。

皮肉だなと思うのは、これだけ自分が感情移入できるのは、アメリカの話であるからなんだろうなというのをわかっていること。この世界には、もっともっと死が身近にある場所がたくさんあるのに。紛争や内戦の話を見聞きしても、今と同じような苦しさを私が感じることはない。薄情なようだけど、それが事実だ。それらの国々で起きている出来事を、私は他人事だと思う。思えてしまう。死には遠近感があるのだ。だからその身勝手さを悔しいと思う気持ちだけは、今後何があっても失いたくない。3.11のときに感じた、自分の傲慢さを今でも覚えている。どうして私は東北のひとたちに心を痛めることはできても、遠い国々のひとたちを悼むことができないんだろうかという、あの無力感と、私は向き合っていかないといけない。

しばらく放心状態だったけれど、数日ぶりに友人とやりとりをして、すこし気持ちが落ち着いた。最近あった良いことを報告してくれた。彼女が楽しそうなのも嬉しかったし、誰かと話せたことも嬉しかった。久しぶりに誰かと言葉を交わしたような気がした。そんなはずはないのだけど、7月に入って会議の数も減って、人と話す回数は前よりも格段に減っているうえに、仕事における自分の価値を見失っていたりして、自分の存在がどんどん透明になっていくような感じだった。惣菜売り場にいた夫婦や、搬入作業をする店員たちを見ていて感じていたものの正体は、ほかでもない寂しさだったらしい。

好きな男と別れてから、思った以上にちゃんと生きている。友人にも、「もっとだめになるかと思った」と言われたし、私自身もそう思っていた。ところが、それなりに規則ただしい生活をしているし、自炊もするし、筋トレもして、ドラマもよく見ている。望んでいる生活そのものだ。そのはずなのだ。なのに、つまらない。友人に「世界の楽しさがぜんぶ半分以下になったみたい」と愚痴を言った。失恋をして世界が灰色になるなんて、それこそ色褪せるほど使い古された表現だけど、そういうことだ。ひとりで楽しめるちからを取り戻さないとなあ、と思う。