11月1日(日)勝ちたい理由

10時に起きる。5時前まで起きていたわりに、寝覚めは良かった。ごみをまとめ、洗濯機をまわして、朝食をとった。グラノーラとヨーグルト、それにトマトジュース。ジュースが買うときの気分に応じてりんごだったりオレンジだったりするほかは、朝食のラインナップはこの数ヶ月ずっと同じだ。

洗濯物を干してシャワーを浴びたら正午を回っていた。その時点で友人との約束には遅刻気味で、大慌てで支度した。ところが家を出たところで、友人から「今起きた」と連絡が入り、待ち合わせの時間を遅らせることになる。思いがけず時間が空いたので、図書館で冲方丁『ばいばい、アースⅠ』、三島由紀夫『愛の疾走』、ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』の3冊を借りた。今週は行けないかと思っていたので嬉しい。

昼食は馴染みのカフェに寄った。ピザトースト。さっそく『ばいばい、アース』を読みはじめる。10年近く前に読んでから、ずっと記憶にある作品だ。それでいて、何がそんなにも刺さったのかは、もうわからなくなっている。今読んだら自分がどう思うのかを知りたいと思った。

15時、友人と落ち合って、映画館へ。目当ては記録的なヒットになっている『鬼滅の刃』だ。アニメ化されている分はすべて観ているが、そこまで深く嵌った感覚はなかった。ただ、同じタイミングでアニメを観た友人がすっかり入れ込んでいたから、その先に続く物語に気を引かれたのだ。その程度の興味だった。甘く見ていた。途中からは呼吸も瞬きも忘れて、祈るような気持ちで観ていた。涙腺も心臓もしっかりやられてしまって、上映後、ぐちゃぐちゃになりながら友人に泣きついた。こうして鮮やかにもたらされる感情があるから、人は創作に惹かれるのだ。

夕食は、友人が見つけてくれた韓国料理店に行った。私も友人も、感染症の流行前はしょっちゅう韓国に行っていたから、こういう形で恋しさを満たすしかない。韓国に行きたいねえ、と何度もこぼしながら、ソルロンタンを食べた。また会う約束をして別れた。

 

惰性だけだった。改善したい、という意志すら持てなくて、すこしずつ乱雑さの増してゆく生活から抜け出せずにいた。いた、と過去形で書くのは、多少のエネルギーを投入してでもマシな方に浮かび上がりたいと、また思えるようになってきたからだ。あと2ヶ月で今年が終わることに対する焦りが燃料になっているのもある。架空の世界に感化されているのもある。

はじめた頃は一日3行しか書けなかった日記が、今ではノートに3ページ以上書けるようになった、と言っているひとを見かけた。それでわかってしまった。私が書けないのは忙しいからではなく、怖いからである、ということに。書くことはそのほかの多くの技術と同じように、鍛えることのできるものであり、使わなければ衰えるものでもある。私はそのことをよく知っている。書かないのは、書きたいと思えないのは、衰えたことを思い知るのが怖いからだ。前にできたことが、今はもうできなくなっていると、わかってしまうのが怖い。書けるかもしれない私のままでいたい。そういうシュレディンガーの何かに縋っている。

でも、と思う。愛する手段として、私は書くと決めたはずだったのではないか。ほかに愛する術なんか知らないのだし。いつのまにか顔向けできなくなってしまっていた過去の自分の決意を、もう一度持ち直すことに恥を覚えなくたっていいはずだ。そういうふうに思わせてくれたのは、『ハイキュー‼』という作品で、あの物語で生きる人たちにとってのバレーボールは、私にとって何なのだろう、というのを、このひと月ずっと考えていた。そしてどれだけ考えてもやっぱりそれは、書くこと、なのだった。「負けたくないことに、理由っている?」と言ってのける日向翔陽の眩しさに憧れながら、でも私はその感覚をよくわかっているような気がする。逃げない。逃げたくない。書きたいことに、けったいな理由を見出す必要なんかないんだなあ、というのを、今更教えてもらったような気がする。

今日観た、炭治郎の「悔しいなぁ 何か一つできるようになっても、またすぐ目の前に分厚い壁があるんだ」というセリフがずっと刺さっている。文章を書くことが、今の自分にとって怖いことなのだというのを自覚したばかりだっただけに、よけいにだ。きっと炭治郎は、そう言いながらその壁を超えていくんだろうなと思う。私は。私は。