2024/3/15

客先で重めの会議を終えた。私の作った資料でクライアントが説明をする場なので、私の出番はないのだが、自分が喋るよりもよほど緊張する。幸い、報告先のお偉方からは好意的なコメントがもらえたので、胸をなでおろした。正午には客先を出る。そのまままっすぐ東京に帰りたいところだったけれど、合間に外せない会議が入っていたので、仕方なく名古屋の事業所に一旦立ち寄って会議に出て、それから東京に戻ってきた。日が暮れきらない時分に家に戻れるのは嬉しい。連れも上がりが早かったので、夕飯を作って夜はゆっくり酒を飲もうかとか話していたはずだったのに、一度布団に倒れ込んだら気を失って、意識を取り戻したときには午後10時をとうにまわっていた。食事を用意する億劫さと、外に出る億劫さとで後者が勝って、どうにか布団から出て、食事を作り始めたときには11時すぎ。せっかく早く帰ってきたというのに。麻婆豆腐を作った。もっと手間のかかる料理だという気がしていたのだが、案外さくさくできあがった。レシピを見る時間が減っているからかもしれない。連れは鮭の缶詰をマヨネーズと大葉と和えたものを作っていた。あとは残り物の胡瓜の中華風和えもの。醤油が染みすぎてちょっとしょっぱい。

2024/3/14

朝は会議がなく、客先訪問までに余裕があったので、筋トレをちょっとだけして、のんびり朝食をとった。バナナとヨーグルトと野菜ジュース。9時過ぎにクライアントのオフィスに着いて、そこから20時まで断続的に大量の会議をこなす。これでようやく一山超えた感じ。所詮は雇われ仕事だけど、半年も一緒に仕事をしていると、それなりに距離は近くなるものである。あと半月で契約が切れて関わりもなくなる予定だが、専門外の領域でもクライアントに信頼されるだけの仕事ができたというのは、けっこう自信につながったところがある。

ホテルと同じ建物に入っているオムライス屋に、ラストオーダーぎりぎりに滑り込んで夕食。高校生の頃、当時交際していた人とよくデートで訪れたチェーンの店だ。いろんなオムライスの中からふたつに絞って、その片方を頼んだけど、いざ食べてみたら、食べたかったのはもうひとつの方だったような気がしてちょっと悲しかった。ホテルに戻ってからは、連れとすこし電話をする。昨日から調子が悪そうで、早く帰りたいなあと思う。連れの調子が悪いときにかぎって私は遠くにいたり体調を崩していたりしてしまう。

通話を切ってシャワーを浴びてからは、ふと思い立って『ブルーロック』のアニメを観はじめた。好きな声優が演じる千切豹馬の絶望したがりな感じがけっこう好きで、その彼がどう変貌するかを見届けようと思ってずるずる観ているうちに、午前1時半になっていた。何やってんだ。 7話まで観たところでは、率直に言って、かなり嫌いな作品だ。他人を蹴落とすこと、能力主義・競争主義を否定的に描かないあたりが、悪い意味で今どきの作品だなあという印象。あとはどうにもこう、ナショナリズムとの親和性の高さに引いてしまうところがある。 これをおもしろいものとして受けとめる土壌がある社会は、けっこう嫌だ。シーンとしてはすくないが、女性の描き方が絶望的に古いのも残念な感じ。この時代に母親がまだ立って食事の支度をしているのに、父親と息子はさっさと食卓について母親を待たずにあたりまえのように食べ始めているのにドン引きしてしまった。令和だぜ。

2024/3/10

9時過ぎに起きる。休日としては上々の滑り出し。コーヒーを淹れて朝食をとろうとしたところで、朝の勤務を終えた連れが帰宅してきた。戻ってくるとは思っていなかったのでびっくりした。たまたまコーヒーは自分で2杯飲むつもりで多めに淹れていたのでラッキーだった。けっこううまく淹れられたと思う。

午後の勤務まで仮眠をとる連れを横目に、ためていた日記を数日分まとめて書く。こまめに書く習慣にしたいのに、けっきょくまたこれをやっている。今日は図書館に行ってひいきのカフェで久しぶりに読書と洒落こもうかなとかいろいろ考えていたはずだったのに、けっきょく連れを送り出したあとも日記を書いていて、気が付いたら日が暮れていた。

夜になって身支度して、映画館で2度目の『ハイキュー!!』を観た。忘れたくない場面はたくさんあるのに、感情の奔流にさらされて、終わったときにはただべちゃべちゃに泣いた人間ができあがる。漫画も読み返したいしアニメも観かえしたい。

冷え込みがきつい。夕飯は鰆の塩焼き。かなりいい感じにふっくら焼けて、めちゃくちゃおいしかった。魚の中でも指折りに好き。それとキャベツとトマトのコンソメスープ、ジェノベーゼソースをからめたブロッコリーのグラタン。

2024/3/11

面倒がって夜にシャワーを浴びるのをさぼったので、朝起きてから大急ぎで浴びる羽目になった。それくらい必要に迫られているほうがさくさく行動できるのでいいのだけど、やっぱり夜に済ませておくんだった。なんとか身支度を間に合わせて、なんとか9時直前に出社する。裁量労働なので定時という概念は適用されないのだが、チームメンバーと出社の約束をしてしまったからには、なんとなく9時に間に合わなくてはいけないという強迫観念がある。これから下の世代がどんどん増えるにつれて、模範的な振る舞いをしなくてはいけないような気がしてしまっていたけど、むしろ模範から外れる手本を見せてやらねばいけないはずでは。いったい何を忘れていたのかと思う。

会議をしていたら、14:46は気づかぬあいだにすぎていた。

午後9時前に帰宅。食事を作るほどの元気はなかったので、連れをさそって近所のインドカレー屋に行く。越してきた頃からいずれ行こうと思いつつ5年が経っていたところだ。私がダルカレー、連れはマトンサグを頼んだ。どちらも抜群に美味しくて嬉しかった。肘から指先まではあろうかという大きさのナンは、まさかのおかわり無料で、腹がはちきれそうになりながら帰った。この街ではめずらしく遅めの時間までやっているのもありがたいし、財布にも優しいし、もっと早く来ていればよかった。また好きな店がひとつ増えてしまった。

2024/3/9

11時前に起きて、洗濯機をまわし、掃除機をかける。連れは正午前に起き出してきて、何やら後ろめたそうな顔で(私が家のことをしているのに自分が寝ていたのが疚しいらしい)昼食を作ってくれた。生のバジルで作るジェノベーゼはすごくいい香りがする。友人たちからは、朝から楽しそうな旅行の写真がたくさん送られてきていた。送って欲しいと頼んだのはほかでもない私で、愛しい人たちが楽しんでいる様子には嬉しくなるものの、私だってほんとうならそこにいるはずだったのに!という気持ちが湧くのも否めないので、せめて意義ある一日にしてやろうではないかと奮起して、午後も寝具を替えて布団を干し、風呂場と洗面所と台所とトイレを掃除したりしているうちに夕方になっていた。だいぶきれいになって機嫌がいい。

昨日、家事分担に関する認識が女性と男性で異なるという新聞記事を見かけた。事実、私と連れも、割合でいえば私のほうが圧倒的に多いだろう。料理や洗濯や皿洗いみたいなわかりやすいものは引き受けてくれるが、いわゆる名もなき家事、というやつである。それは、居住空間に対して求める清潔さのレベルが異なることに起因するものが多い。私は前の晩に飲んだビールの空き缶や鼻をかんだあとの丸めたティッシュがテーブルに残っているのが嫌だし、肉や魚の入っていたプラスチックトレーが洗ったあと流しに置きっぱなしになっているのも、流しの端っこに野菜の切り屑が残っているのも、コンロの周囲に油が飛んだままになっているのも嫌。そういう差が性別役割規範に基づくものなのか、個人差なのかはさておき(とはいえ、男女で同居している人と話すと共感されることが多いので、やはり傾向としては社会的なものだろと思う)、同居当初は、気になる方がやればいいやと鷹揚に構えていたのだが、半年も経つと、なんだかなあ……という気持ちになっている。折り合いをつけるには、私が要求レベルを下げるか、連れが私の要求レベルに上がってくるかしかないのだが、部屋が散らかってくると気分が落ち込みやすくなるので、前者は選びたくない。そろそろちゃんと会話したほうが良さそうだなあという気がしつつある。同居を始めた頃って毎日楽しくて楽しくて、この先不満が出てくることなんかありっこないとか思っていたけど、生活していればそれなりにいろいろ見えてくるものである。

すこしずつ、冬眠していた欲望が自分の中で目を覚ましつつあるのを感じる。実際に行動に移せるかはともかく、出かけたいな、と考えることが増えた。思い返すと、この冬は、いつもにましてほんとうに活力がなかったように思う。毎年冬は鬼門なのだが、今年は例年ほど気持ちの落ち込みは深くなかっただけに、体力的な衰えを一層自覚する。家で過ごすのがすっかり当たり前になってしまって、休みの日に植物園に行ったりカフェに行ったりしていたのが自分のことではないように思えるというか、今の自分に同じことができるという想像ができなくなってしまった。

今月最後の週末にソウルで開催されるアンコンに行けることになったので、好きだった女の子とやりとりをしながらホテルと航空券の手配をしていた。そうそう、こういう身軽さだよ、と思う。今の私には、自分がどこにでも行ける、という確信が失われていて、それは確実に私を不自由にしている。今、ここに自らをとどめおこうとする窮屈さ。それにしても、航空券もホテルも、けっこう出費としては痛い。ソウルはもっと気軽に行けた場所だったと思うのだけど。

この1年ほど、まったく出費が管理できなくなっている。冷蔵庫とかベッドみたいな、連れとの同居にあたって新調したものとか、直近だとメキシコの航空券もあるし、こうしてソウルに行く機会も増えてきたりと、大きな出費が増えているのに、食費も増えているし、ほかの趣味ごとの支出速度がそこまで落ちていないので、ちょっとやばそうだなという漠然とした不安はあるのだが、腰を入れて精査できていない。なんだかんだ毎月微妙に赤字で(しかも現金の支出がろくに記録できていない状態でこれである)、それをボーナスで補填しているような状態なので、そろそろ立て直さないとならない。

記録:2024-Feb

フィツジェラルド短編集

フィッツジェラルドの書く世界って全然共感も想像もできなくておもしろい。おもに奴隷制へのスタンスの違いから南北戦争が起きたこととか、知識としては知っていても、私の中でアメリカってアメリカだったけど、南部と北部の空気感の違いを初めてちゃんと意識したような気がする。

苫野一徳『はじめての哲学的思考』

だいぶ前のちくまプリマー新書の電子書籍セールのときに購入して、数年積読していた本。かなり平易な言葉で噛み砕いてあり、哲学を高尚なものにせず、市井に落とそうという試みがよく見える、いい本だなあと思った。「本質観取」の例題として挙げられていた「恋」が、誰もが経験しうるものとして説明されているのは気に食わなかった(Aro/Aceを不可視化するな)けど、「哲学とは他者と共通了解を見出すための営みである」という考え方はすごく好きだった。

哲学のすごさは、こうやって問題の”本質”を明らかにすることで、その問題を克服するための考え方を切り開く点にある。

これはヘーゲルを例に説明した一文で、マルクスのことを少しずつ知りつつある今、私はすでにそれだけでは不十分であることを知ってしまっているけれど、でも、これは人間社会を良くするための鍵であることに違いはないと思う。そもそもその対話が成立する土壌がないことには意味がないのだけど……。

小川洋子『夜明けの縁をさ迷う人々』

小川洋子って好きそうなのに絶妙に好きじゃないというか、あと一歩刺さらないなあと読むたびに思っている気がする。

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』

2024/2/22 - 地上のまなざし たしかにすごい小説だった。でもこれが名著ともてはやされる世界のことはやっぱりゆるしたくない。

 

漫画

ダンジョン飯1-2巻

連れの蔵書。連れの好きな漫画はどれも食事が美味しそう。

 

映画

恋する惑星

初めてのウォン・カーウァイ。変な話だった。眠りが浅いときに見る夢みたいな脈絡のなさ。

チャーリーとチョコレート工場

なんでか突然観ようってなった。

ゴールデンカムイ

2024/2/12 - 地上のまなざし

劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦

最高最高最高。

ヴァチカンのエクソシスト

びくびくしながら観ていたけど、終わってみると怖かった……のか?という気持ちになる。絶対あんな城で暮らしたくないだろ。カトリック教会への忖度がちらつくのがちょっとなあって気持ちになる映画だった。異端審問の暗い過去を悪魔に責任転嫁するのめちゃくちゃだろ、反省しろよ。

ハリー・ポッターと賢者の石

JKRのトランス差別発言がずっとゆるせずにいるけど、どうしても観たい気持ちに勝てなくて観てしまった。でもやっぱり本が読みたいな……。

 

ドラマ・アニメ

葬送のフリーレン

あいかわらずちまちまと観ている。1クールのOPとEDがほんとにほんとに大好きだったから、2クールに入ってちょっとモチベが低迷気味かも。

Hypnosysmic Rhyme Anima 2

1のほうがいろいろとっちらかってて(褒めてる)好きだったような気がするなあ。曲も。

ハズビン・ホテル

まだ2月だけど2024ベストアニメじゃないですか?????何もかもが最高。天国と地獄、男と女、年長者と年少者、現実に存在するありとあらゆる価値・権力の勾配を転倒させてやろうという意志を感じる作品。性的でグロテスクで暴力的、とことん下品なのにこれができるバランス感覚ってただただ……すごいなあと唸ってしまう。苦手な人はいるだろうけども。なんていうか、こういうマイノリティの存在が当たり前に描かれた作品ってどこかきれいでいることを求められる空気がある気がしていて(『his』とか『Call me by your name』とか『燃ゆる女の肖像』とか)それが必ずしも悪いわけではないとはいえそこにはやっぱりマジョリティへの配慮とか窺いの視線があると思うんだけど、そこに中指突き立てている感じも好きだった。そう、マジョリティに対する配慮がいっさいない。

インターネットで見かけてなるほどと思ったのは、恋愛至上主義的な世界において恋愛・性愛を経験しないAceのキャラクターはしばしば「心がない」みたいな扱われ方をすることがあるけれど、地獄にいるキャラクターはみんな等しく悪だから、アラスターだけが悪じゃないのが良い、という感想だった。レズビアンで悪、ゲイで悪、ヘテロで悪、そういう世界においてはAce「だから」悪、ではなく、Ace「で」悪にしかならない、と。

TRICK 1~8話

連れが夜勤前に観ていたのを横で観ていたら、そのままやめられなくなってしまい、連れが出勤したあとも一人でけっきょく8話ぶっ通しで観てしまった。別に観たかったわけでもないのに……。貧乳をネタにする感覚って、大学生くらいまでは自分にもあったけど、今観るとふつうにドン引きするなあ。

 

舞台・コンサート・ライブ

鈴木勝吾さん バーイベ

2024/2/4 - 地上のまなざし 最高だった。素敵な俳優だ~。 

 

なんか仕事が忙しかったな……。飛ぶように過ぎていった。でもわりと良い感じに本が読めてる(量というより、質の面で)ので、この感覚で楽しみたい。

 

2024/3/8

国際女性デー。会社でもいろいろそれにちなんだ企画をやっている。女性の活躍推進に関してはきっちり取り組んでいる会社だと思うし、全体的に人権に対する考え方を評価しているから丸7年同じところにいてもいいと思えている。全世界の社員が、毎年必ず受けさせられる年次教育のストーリー仕立ての動画やイラストで、ありとあらゆる人種とジェンダーの人間を登場させ、不当な暴力と差別はゆるさないと繰り返し明言する会社だから信頼できた。でもこの会社は、イスラエルを支援している。それだけで、すべてが空虚だ。

社内ネットワークをあちこち覗いていると、ムスリムコミュニティではパレスチナ支援の空気が明確にあるものの、日本語圏も含め、それ以外ではまったく見当たらない。米国本社の社長に直接物を申せるスレッドで、イスラエルの支持を撤回し虐殺に反対しろと言っている他国の社員がいることには一瞬だけ勇気づけられたものの、それに対する夥しいネガティブなリアクションにすっかり落ち込んでしまった。どうしてビジネスに関係のない話題を持ち込むんだ、というコメントさえついていた。とはいえ、個々の社員に意見(として認めるものでは本来断じてないのだが……虐殺をやめろということがなぜ共有できないのか)を異にする人がいるのはまだ想定できるとしても、今まで不当な差別と暴力に明確に怒りの姿勢を表明してきた会社であればこそ、これを虐殺と認識し、それを否定してほしかった。これはもうアメリカという国の機能不全だと思うけれど、ほかでこんなまっとうな会社運営をできるところでさえ、ここに関しては間違えてしまうのか……という徒労感がひどい。

アメリカがこうも後に引けなくなっているのは、9.11の影響が大きいのだろうという想像はついている。まだ物心もおぼつかない頃だったけれど、当時アメリカにいて、周りの大人の動揺と狼狽から、幼心に大変なことが起きたんだと思った記憶がある。人の命を奪った非人道的な出来事として語られるし、それは事実ではあるけれど、それ以上に、常に侵略者・絶対的な強者の立場であり続けてきた自分の立場が揺らがされることを、アメリカ自身が許容できなかったのだろう。以来、「テロリスト」という言葉は憎悪の対象となり、その実体であるところの人間を命として扱うことを放棄した。テロリストを報復の対象だと定義した先に、今の殺戮も正当化されているのだと思う。報復は答えじゃない。誰も殺すな。

数日前、社内のチャットツールのステータスに西瓜のアイコンを設定している人を見かけた。どうして思いつかなかったのだろうと思うが、せめて私もこれくらいはやろうと思って真似てみた。否、思いつかなかったのではなく、頭にはあったが実行に移す勇気がなかったというのが正しい。その人は私の知らない人だから、実際のところどういう意図かを知る由もないが、背中を押された格好だ。今日になって、久しぶりにチャットを送った同僚に、用件の話が済んだあと、なんで西瓜なの?と尋ねられた。会社がイスラエルを支援しているのが仕事をやめることを考えるくらい嫌なので、せめてもの反抗であると答えたら、どんどん反抗していこう!と返事が来た。嬉しくてちょっと泣きそうになった。仕事で政治の話をするのはタブーだという空気を、内心でくだらないと思っていたところで、具体的な行動を伴う形で否定するのは難しい。所詮、私は権威に対して従順な性格だからだ。それでも、小さな反抗が無意味ではないと思えたことが嬉しかった。

夜は連れと買い物をして、近所のケバブ屋でテイクアウト。それをつまみながら別のものを作るはずだったのが、結局それだけでお腹いっぱいになってしまった。『葬送のフリーレン』の続きを5話分観て、最新話に追いついた。ちょっとところどころ眠気に負けてしまった。すこしずつ戦闘や冒険のシーンが増えて「いわゆるファンタジーもの」らしくなりつつある。ヒンメルたちの面影を追いながら続ける旅の日常の情景を描く、ロードムービー的な雰囲気に惹かれた身としては複雑な思いもあるのだが、フリーレンがフェルンやシュタルクと過ごす日々に、ヒンメルたちとの記憶を重ねていることが愛おしい。生きることとは思い出されること、と追想のなかでヒンメルは笑う。私が公開の場所で文章を書くのをやめられずにいるのも、けっきょくのところ、誰かに思い出されたいからかもしれない。